「リスクを冒して、勝機を得る ~ K-POPの成功に学ぼう」古家教授の韓流・K-POP講座 ― Vol.1

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久々の連載となります。お元気でしょうか? 今学生さんは夏休みの方が多いと思いますが、宿題でレポートを書かなければならない人もいるのではないでしょうか。実は僕、1年間に、いくつかの大学や専門学校などで、授業や講演を受け持つことが多いのですが、それは自分の経験を活かして、韓流やK-POPに関して興味を持っている学生さんに、単にファンでいるだけではなく、その成功の背景にあるものや、自分の好きなものを介して、韓国という国への理解を深めてほしいという思いがあるからなんです。

そこで、今回の連載は、7月に早稲田大学のICC(異文化交流センター)が主催して行った「なぜ世界はK-POPに熱狂するのか? ICC K-POP Talk Night」で行った僕の講演の一部を、早稲田大学ICCさん、および参加学生さんから許諾を得て、文章化し、一部情報を加えてご紹介させていただこうと思います。K-POP関連のリポートを書こうと思っている学生さんはぜひ参考にしてみてください。

「K-POPの成功はチャレンジと苦労から」価値を世界に知らしめた“見せる音楽”とは?古家教授の韓流・K-POP講座 ― Vol.2

 

古家教授の韓流・K-POP講座

ヨロブン、アニョハセヨ! 古家正亨です。この度は、お招きいただきありがとうございます! 3年ぶりに、早稲田大学ICCのイベントに参加させていただきました。こちらに参加してくださる学生さんは、皆さん、いつも僕が話をしてることに対して一生懸命耳を傾けてくださって、質問のクオリティも高く、毎回、驚かされます。なので、僕自身もこうやって早稲田に来てお話させていただくことが毎回本当に楽しみですし、僕自身も学ばせていただければと思います。

僕のことを知ってる方は、多分、韓流スターやK-POPアイドルのファンミーティングやコンサートのMCとしての顔をご存知の方が多いと思いますが、韓国大衆文化ジャーナリストという肩書きも持っていました。“いました”とあえて言ったのは、今はなるべく使わないようにしているんですね。というのも、僕自身があまりにも韓国のエンタメ業界の当事者になりすぎてしまって、常に客観的な視点で、ジャーナリストとして情報を伝えられなくなってしまったからなんです。ジャーナリズムを専攻している方であればわかると思いますが、ジャーナリストはその分野における“番犬”でなければならないわけで、僕の立場であれば、韓国のエンタメ業界と距離を置いて、それを見つめ、ある種批判しなければならない立場にいるのに、あまりにも深く入りすぎてしまって、批判できなくなってしまった自分がいるわけです。ですから、今日の講義は、どちらかというと、その当事者という立場からお話をさせていただければと思います。

気づいたらそんな僕も、韓流やK-POPと関わって、かれこれ20年以上になります。もうすぐ四半世紀。きっとこの会場にいらっしゃる学生さんが生まれる前から、関わっていることになりますが、そうなると、日本の韓流の原点である、ドラマ『冬のソナタ』を観たことある人、この中にどのくらいいるんでしょうか?

<会場:ほとんど手が上がらず>

そうですよね……でも、それだけ韓国のエンターテインメントが日本に根付いてから、もう長い歴史を誇るようになったということですよね。ここ数年、K-POPに特に注目が集まっていますけど、やっぱりBTSの影響が大きいと思います。この中に、どのくらいARMYはいますか?

<会場:3分の1ぐらいの人が手を挙げる>

本当はもっといるんじゃないですか? でも、意外と「Dynamite」や「Butter」から好きになった人も多いんですよね。なので、デビュー当初から応援している人に対して、遠慮して、好きなんだけど「自分はARMYです」と言えないという人も少なくないみたいですが、そんなことはないと思います。自信をもって「ARMYです!」と言って欲しいですね。もはやPOPスターという感じの存在になったBTSですが、彼らに限らずもうすぐカムバックするBLACKPINKの人気もすごいことになっていますし、Stray Kidsも米ビルボードで1位を取り、最近ではaespaもすごい人気のようですね。
 

『冬のソナタ』で生まれた日本での韓流ブーム

かつては、K-POPアーティストの海外進出と言えば日本でした。それはアメリカに次ぐ世界第2位の音楽市場があり、先ほど紹介した2003年のドラマ『冬のソナタ』上陸を機に生まれた韓流ブームというベースがあるおかげで、韓国の大衆文化を受け入れやすい土壌が整っていたこと。そして同じアジア人として韓国の文化に対する理解を深めやすかったなど、隣国ゆえのメリットがあったから。それで日本がその目的地となったわけです。更には、収益化しやすい音盤(CD)市場が世界的に見てもいまだ大きく、著作権に関しても厳格に管理されているため、権利から得られる収益の大きさも魅力的に映りました。そして、ライブ文化が充実していることもあり、公演によって得られる収益も大きかったことが、日本市場がより魅力的に映ったに違いありません。

でもそれ以上に日本が魅力的に映るのは、日本のファンの皆さんが、一度好きになったらトコトン、そのスターに付き合ってくれるからです。韓国の場合は、スターの活動サイクルも早いですが、ファンでいる期間も比較的短く、しかもアイドルに関しては、ここ数年、“アジョッシ(おじさん)・アジュンマ(おばさん)・ヌナ(お姉さん)ペン(ファン)”と呼ばれる人も増えてきていますが、それでも老若男女問わないファン層のすそ野の広さは、日本のファンの方が圧倒的に広いといえます。結果的にこうした背景も日本におけるK‐POPビジネスが韓国側から、期待と信頼を得ている背景にあるわけです。
 
▼世界的に人気を誇るBTS「Dynamite」

 
そんな彼らの活躍が、今やもう日本、いやアジアという枠を超えて世界的な規模に広がりを見せ、BTSのアメリカでのブレイクを機に他のK-POPのスターたちも、ワールドツアーをベースとした世界進出を本格化させています。では、皆さんに質問です。こんなにも世界で支持されているK-POPですが、「いったい、なぜ?」って思いませんか? わかる人、いますか?

<会場:手を挙げる人はいない>

20年、この業界に身を置いている僕でさえも、本質的な理由って、よくわからないんです、正直言うと。なぜかっていうと、単純にBTSが流行っている、PSYの「江南スタイル」がヒットしたっていう理由だけでは、この問題を解き明かすことって難しいんですね。そのためには、K-POPをとりまく歴史を紐解いていかなければならないんです。ただ、今日は50分という短い時間しかありませんから、すべてを掘り下げるのは困難なので、大きな変化のあった90年代以降に特化してお話していこうと思います。
 

90年代に韓国音楽界に築かれた歴史

1990年代といいますと、韓国の音楽界にある歴史が築かれたというふうに言われています。ソテジワアイドゥルの誕生です。ソテジワアイドゥルは韓国で91年に結成、92年にデビューした3人組で、当時は“歌謡(ガヨ)”と呼ばれ、日本の演歌にあたるトロットやバラード曲が主流だった韓国の音楽界に、完全なるヒップホップではなかったものの、ラップを持ち込み、それを、ダンスパフォーマンスと共に見せ、聴かせるという、今のK-POPアイドルのベースを作った存在として知られ、音楽だけでなく、ファッション、いわゆるカルチャーそのものへの影響力も絶大なものを誇っていました。特に94年にリリースした3rdフルアルバム『渤海を夢見て(발해를 꿈꾸며)』は、南北問題を扱った歌詞が大きな話題となって、当時の特に彼らに熱狂していた10代の若者たちに、改めて北朝鮮との関係について考えさせるきっかけを作ったといわれ、音楽を超えたその影響力を例え「10代の大統領」とか「文化大統領」の異名を持つまでの存在になったのです。

さらっと流してしまいましたが、ソテジ登場以前の韓国の音楽は、基本バラードがメインだったんですね。もちろん、ロックやポップスといったジャンルの音楽もありましたが、90年代までは、その曲がどんなジャンルの曲かを知っている人は少なかったですし、社会全体が、それらを含めた韓国のポピュラー・ミュージックを“歌謡”とカテゴライズしていたので、リスナーは、どんなジャンルの曲を聴いても、“韓国の歌謡”を聴くという感覚でいたわけです。しかも当時はジャンルが細分化されていなかったこともあって、1人のアーティストがいろんなジャンルの曲をアルバムに収録していたというパターンがほとんどで、僕も当時バラード歌手と呼ばれる人のCDを買って聴いてみたら、タイトル曲は確かにバラードなんだけど、それ以外の曲はレゲエだったり、R&Bだったり、ジャズだったりと、完全なごった煮状態のアルバムで、そのアーティストの音楽的なアイデンティティを見出すことがほぼ不可能な作品でした。僕の学生時代である1980年代後半から、音楽ジャンルの細分化が進んでいった日本とは状況がまるで違っていたので、それがまた新鮮にも感じられたほどです。なので、そんな世界で未開拓のジャンルだったラップやヒップホップを導入し、踊りながらそれを聴かせるというソテジワアイドゥルの革新性に触れた当時の若者たちがなぜ熱狂したのか、こうした背景を知っていれば、その理由が少し見えてくるのではないでしょうか。

本当は、このお話だけでも1時間、2時間は話せるぐらいなんですが……。実はこの90年代って、日本との関係性が非常に重要で、それについて必ず触れておかなくてはなりません。最近もシンガーソングライターのユ・ヒヨルさんの剽窃問題が、韓国で大きなニュースになりましたが、ユ・ヒヨルさんに限らず、この時期は日本のアーティストの楽曲を、よく言えばインスピレーションを受けて、悪く言えばパクった曲が韓国の歌謡には意外と多かったんです。というのも、日本と韓国は当時、政治的に難しい状況で、韓国では日本の大衆文化の導入を「文化による植民地化を進めるものだ」として、音楽をはじめ、映画、ドラマなど、日本製コンテンツの正規輸入を長く禁じてきました。違法的には持ち込まれてはいましたが、日本のコンテンツを楽しめる人には限りがあったのです。

確かに2000年代前半までは、アジアにおける日本の大衆文化コンテンツは最強だったと思います。ですから、文化とは言え、ソテジワアイドゥルのケースも考えると、日本のコンテンツが特に韓国の若者たちに与える影響を考慮し、ある種の文化的鎖国を行わざるを得なかったというのが実情ではないでしょうか。となれば、自国民さえ知らなければ、日本の曲をパクった曲を作ったとしても、それがどこの国の曲か知る由もないわけですから、そういった曲が自然に増えてしまいます。しかもそういった楽曲は、韓国国内だけで消費されていたので、例えパクったとしても、日本に与える影響は軽微だったわけです。しかも今の時代とは違い、インターネットもSNSもなかったので、こういった情報が他国へと知られる手段もマスメディアだけと、極々限られていたことが、悪い意味で功を奏しました。


韓国で日本の大衆文化が段階的に開放

ところが、90年代後半から2000年代前半にかけて、日韓関係が改善していくに合わせて、日本の大衆文化が韓国で段階的に開放されることになります。1998年、日本は当時、小渕恵三首相でした。そして、韓国は金大中大統領時代に、日韓共同宣言を発表。日本の大衆文化の段階的開放を推し進めたわけです。ちなみに、第1弾の開放では、日本映画の中で、海外の3大映画祭で受賞した作品のみ上映が許されるというもので、公開第1号は、韓国で絶大な人気を得ていた北野武監督の『HANA-BI』でした。当時僕は韓国留学中だったので、その時に様子、ニュース報道は鮮明に覚えています。

翌99年には、日本語での音楽公演が解放され、第1弾としてソウルで喜納昌吉さんがコンサートをおこないました。また同じ99年には、日本人2人、韓国人1人で構成される3人組日韓混成のロックバンドのY2Kが「別れた後に(헤어진 후에)」という曲が国内チャートで1位になったり、日本の大衆文化、そして、日本の文化人を取り巻く韓国国内での環境は大きく改善され、2004年1月1日から、韓国での日本語詞のCD発売が全面解禁されることになり、合法的に日本の音楽が韓国に流入するようになったわけです。これによって、日本の音楽を簡単に剽窃することは不可能になったわけです。そして、ここから韓国の音楽界は次の発展へのステップを踏み出すことになります。音楽の欧米指向への転向とオリジナリティの追求へと向かうことになるわけです。そして、それが世界標準の楽曲が誕生する動きへと繋がっていったんですね。

「K-POPの成功はチャレンジと苦労から」価値を世界に知らしめた“見せる音楽”とは?古家教授の韓流・K-POP講座 ― Vol.2

古家正亨×Kstyleコラム Vol.20

古家正亨(ふるやまさゆき)

ラジオDJ・テレビVJ・MC
上智大学大学院文学研究科新聞学専攻博士前期課程修了。2000年から韓国音楽を中心に、韓国の大衆文化をあらゆるメディアを通じて紹介。昨年までは年平均200回以上の韓流、K-POP関連のイベント等のMCとしても活躍している。

現在もラジオでは、NHK R1「古家正亨のPOP☆A」(土曜14:05~)、FM NORTH WAVE「Colors Of Korea」(土曜11:00~)、CROSS FM「これ韓~これであなたも韓国通~」(土曜18:30~)、テレビではMnet「MタメBANG!」(隔週日曜20:30~他)、テレビ愛知「古家正亨の韓流クラス」(隔週火曜 深夜0時30分~)、BSフジ「MUSIC LIST~OSTってなに~」(不定期)、配信では韓国文化院YouTubeチャンネル「Kエンタメ・ラボ~古家正亨の韓流研究所」といった番組を通じて日本から韓流、K–POP関連の情報を伝えている。

自身のYouTubeチャンネル「ふるやのへや」では妻でアーティストのMina Furuya(ホミン)と共に料理やカルチャーなどの情報を発信中。

Twitter:@furuyamasayuki0

記者 : Kstyle編集部