【映画批評】映画「悪いやつら」

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写真=映画「悪いやつら」のスチールカット、ショーボックス提供

1.今や昔となった80年代

「(電話口調で)友達数人と江原道春川市江村(カンウォンド、チュンチョン市カンチョン)に夜間キャンプに行ったことがあるんだ。高校ん時に。その時はツイていたのか、隣のテントにちょうど女学生がいたんだよ……国楽芸術高校の子たち。自然に集まった。若いやつらが丸く座って、幼稚なキャンプファイヤーをして歌い出したんだよ。それがすごく上手くてな……蒼い夜空に月が浮かんでて、それ自体がファンタジーで衝撃的だったんだ。珍しい経験? 畏敬の念と好奇心というか、まぁ、驚いたんだよ。歌って踊って、まぁ、それを中学生の頃から自分の道を決めた子たちだからな。すごくないか? それまで俺の頭の中には、“何をして暮らしていくか?”なんて、まったく考えがなかったことだから。おかげでそれからは、ものすごく悩んだよ。『自分は何がしたいか』『自分の得意なことは何か』、まぁ、そういうことで自分の答えがその時決まった。おかげで彷徨ったりせずに済んだ。何で生きているんだろうと思うたびにあの時のことを思い出すと気持ちの整理ができるんだ。まぁ、個人的な思い出だから貸すことなんてできないし・・・とにかくがんばろうな。今からでも君がやりたいことをすればいいんじゃないか?……もしもし?……もしもし?」
これは、映画「悪いやつら」を観て思い出した筆者の実話を再構成したものだ。歴史的事実に基づいた映画で、それとマッチした筆者のエピソードも歴史的事件と一緒に解いていくべきなんだが、自分自身を振り返って反省するような記憶だけが思い出される。果たして理由はなんだろうか?


2. チンピラまがいの自己実現

“If you only have a hammer, you tend to see every problem as a nail.”―心理学者Abraham Maslow.

映画「悪いやつら」は、始まりから古い報道資料と架空の状況を織り交ぜながら、急ぎ足で90年代に観客をナビゲートしていく。この映画を通じて観客は、似ているようで似ていない、曖昧なその時代の政治と組織暴力団の世界を垣間見ることができる。劇中、国家的な犯罪掃討作戦で緊急逮捕された主人公チェ・イクヒョン(チェ・ミンシク)。彼は一体何者なのか。組織暴力団の大物でも、チンピラでもない。逮捕した検事も首を傾げる。「私は、チンピラじゃねえんです。元公務員です」と、ふてぶてしく、同じ公務員なんだから大目に見てくれといわんばかりの主人公チェ・イクヒョン。その態度は、検事を余計イラ立たせた。「俺がチンピラだと言ったらチンピラだ。お前、何者だ? やくざでもないならチンピラまがいか?」と苛立つ検察と同じように、観客も彼が何者なのかについて興味がわいてきた頃、場面が変わり再びチェ・イクヒョンの80年代に呼び戻される。依然としてふてぶてしいチェ・イクヒョンは、様々な方法を使って生活苦を解決していく税関の平社員だった。直接知り合いではないが、時々見かけるような、図々しくてちゃっかり者のどこにでもいる、そんなタイプの人間だ。だが、そんなちゃっかり者の彼が、解雇される危機を迎えた。それと同時に、危険ではあるがボロもうけできるチャンスが訪れる。彼は、何のためらいもなくヒロポンの密輸入を横取りし、組織暴力団の世界を行き来する。ここまでが前半だ。

この映画を観ている間、少々分かりづらくて混乱してしまった。悪くはないが、はっきりと何が言いたいのか分からない曖昧な感じがする。前半の部分はハードボイルド風にもっと重くするか、ブラックコメディ・タッチにでもすると、もっと分かりやすくて面白かったのかもしれない。だが、主人公のチェ・イクヒョンという人物が実在したことや、登場人物の名前が同じだとか、特定の人物を強調するところを見ると、この映画はブラックコメディにするつもりなんてさらさらなかったのであろう。だとすると、前半のハードボイルドな雰囲気をさらに強調して余韻を残せば良かったように思う。その方が、冷酷な悲壮感の中で、その後のリアリティのある面白さを気軽に楽しむことができたからだ。たとえば、ラストのハイライトシーンである車の中の決闘、「チャン・ギハと顔たち」の曲が流れるシーンがそれだ。もっと光る最高のシーンにすることもできるのに、と。

そうして、はっきりしていないが意味のある多くの場面の中で、代表的なものは、やはり監督があえて余白を残したラストシーンだ。「あれ?なんだろう。何について言っているのだろう?」という観客の質問に監督は、「団塊の世代への憐れみだ」と答えた。筆者は、80年代から90年代を振り返ると、ひたすら神経質で耳障りな皿洗いの音だけが聞こえてくる。それも心地よくリズミカルなまな板の上の包丁の音とぐつぐつ煮える味噌汁の音が聞こえなければならない時にだ。権力者が持っている武器や、交渉の必要ない銃刀が嵐のように乱れ飛んでいた時期に、子供たちはより良い未来のために突き進み、父親たちはより安全な現実のために、危機に面した瞬間でさえチャンスを逃すまいと我を忘れて東奔西走した。

権力だろうが暴力だろうが、それらを持っている者たちが力を振りかざしている隙に、主人公のチェ・イクヒョンができることは、血縁を総動員してでもどうにかコネでチャンスを掴もうとすることと、そこらじゅうに金魚のふんのようにくっついて寄生するパラサイトになることしかなかった。唯一手にしている武器が銃弾の入っていない空の拳銃ゆえ、できることといったら恐喝ぐらいしかない。権力を持つものは権力を、力を持つものは暴力を振るうものだ。だが、それらを持っていないものは、何を振るえばいいのだろうか。

ラストシーンでウトウトしながら座っているチェ・イクヒョンを呼ぶ声が聞こえる。「ご主人様」。

人間の自己実現の研究をしていた心理学者マズローの人格理論「自己実現理論(欲求段階説)」は、有名である。生理的、安全、社会的、尊敬の欲求まで実現し、疲れたようにぼうっとしている主人公チェ・イクヒョンを「ご主人様」と呼ぶ声が聞こえる。筆者には、もう空の拳銃は捨て自己実現を実現させるために自身を振り返れという声援のように聞こえるのはなぜだろうか。映画が暗示した最後のシーンで、筆者が選択した結論が、「団塊の世代への憐れみ」というだけでは、何だか物足りない感じがする。

この批評書いたキム・ソクミン氏は、インディー映画の監督で、現在、済州島(チェジュ島)で済州硝子博物館に勤務しながらシナリオを書き溜め、短編映画を準備中だ。

記者 : ペ・ソニョン