【ドラマレビュー】「会いたい」社会的ロマンスを掲げたが、ありきたりな復讐劇に

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「私の心が聞こえる?」に続き繰り返されている、ムン・ヒジョン脚本家の世界観

昨日で「会いたい」が最終回を迎えた。視聴率はさておき、この作品を残念に思う理由は、社会問題をドラマを通じて積極的に語ろうとした“社会的ロマンス”を掲げたにも関わらず、中盤以降は有り触れた復讐劇に方向転換し、名作の座から自ら滑り落ちたためだ。ドラマの素材としてはハードルの高い性暴力問題を勇敢に掲げておいて、自らそれをドラマの潤滑剤の役割以上には使えなかった「会いたい」は、長く、惜しかったドラマとして語られるのではないだろうか。

しかし、振り返ってみると「会いたい」の脚本家ムン・ヒジョンは、前作「私の心が聞こえる?」でもそうだった。障がい者を主人公に、血縁のない代替家族のストーリーを前面に掲げたものの、結局は希代の復讐劇に仕上げた。習慣だろうか? 我執だろうか? 限界だろうか?

「父さん、あなたは人間ですか?」一貫して父の原罪にこだわる

(C)MBC
「会いたい」第20話は、今まで抱え込んできたものを解放するかのように、主人公の口を借りて、このドラマが目指していた全てのことを語った。性暴力のトラウマを持つヒロインは、今になってやっと母親と共に自身の傷を癒し、主人公は父に向かって、あなたこそこの一連の事件の責任を取るべきだと叫んだ。

ムン・ヒジョン脚本家の作品は宗教的だ。宗教で常に人間の原罪を触れ、その答え探しに全力を注ぐように根強く主張する。全てのことは親世代の歪んだ欲望から始まるのだと。

「私の心が聞こえる?」の3人の主人公。チャ・ドンジュとチャン・ジュナ、ポン・ウリは、直接的、間接的に父チェ・ジンチョルの悪行に苦しみ、大人になってからもその苦痛から逃れられない。「会いたい」も一緒だ。ハン・ジョンウ、カン・ヒョンジュン、イ・スヨンの現在は、父ハン・テジュンの悪行に起因する。そしてこの二つのドラマにおける父親の悪行は、根本的に“お金”や、より多くのことを手に入れるための“欲望”から始まり、父親たちは徹底した破滅に至るまで反省しない。

「1人だけを狙う」と言う、尋常ではない喧嘩の仕方のように、ドラマは一貫して父の原罪にしつこくこだわる。息子の世代の如何なる悪行も、全て父のせいだ。そして父や父の回りの悪人のお陰でその罪が薄まる。「私の心が聞こえる?」のテ・ヒョンスクも、「会いたい」のカン・ヒョンジュンも、実はかなりの罪を犯したが、父世代の闇に隠され、その罪はそっと消えてしまう。

「僕が本当に人間の子ですか?」父親世代の傷によるトラウマ

(C)MBC
父親世代の悪行で子ども世代まで不幸になるが、それに対する子ども世代の反応は、やはり宗教における善と悪の二分法的な区分のように、明確に分けられる。例えそれにより、身体的破壊を経験しようが(「私の心が聞こえる?」のチャ・ドンジュ)、精神的苦痛を強いられても(「会いたい」のハン・ジョンウ)、父親世代の過ちを繰り返すまいとする、全うな子どもがいる一方、それに比べ父世代の傷によるトラウマで歪み、その傷を返そうとする復讐のタイプが登場する(「私の心が聞こえる?」のチャン・ジュンヒョク、「会いたい」のカン・ヒョンジュン)。

ここでジレンマが発生する。子ども世代の復讐は、やはりその過程で犯罪を招くが、ムン・ヒジョンワールドの人々は、大人になっても依然として傷ついた子ども扱いをされるので、犯した犯罪の深刻さが見落とされやすく、免罪を受けるような印象さえも受ける。「私の心が聞こえる?」のチャン・ジュナの詐欺のような行動はさておいても、「会いたい」のカン・ヒョンジュンは6人の罪のない命を奪ったにも関わらず、依然として母親を亡くし、足を怪我した、守るべき子どものように扱われる。

更に深刻なのは、脚本家が言おうとするテーマ意識は“真っ当な大人になるべき”で、それは結局主人公の健全な判断と行動によるものになるしかないが、ドラマをリードするのは、父親世代の悪行により繰り返される悪行なので、復讐劇の主人公が常に中盤~後半以降はドラマをリードする主な原動力となる。確か脚本家が辿り着こうとするのは“善”だが、より先験的な“悪”を浮き彫りにするために子孫の“悪”は不可欠で、時には美化されるという、自らの落とし穴にはまることによって、当初語ろうとした“善意”さえも色あせてしまう結果を生み出す。

正義の味方クレイジーラビットハン・ジョンウ刑事は、最近では珍しいほど素敵な男だったが、彼の活動はいつからか常に警戒性人格障害という言い訳で犯されるカン・ヒョンジュンの悪行の後を追いながら証拠を集めるだけで、説得力のないカン・ヒョンジュンの事情と感情はだらだらと語られるだけだ。当初、社会的ロマンスを掲げた問題作であり、話題作だった「会いたい」が、広告もあまり残っていないまあまあなドラマのようになってしまったことには、脚本家の論理的ジレンマが決定的だった。

「ハン・ジョンウ、君さえいれば大丈夫」いつも受身のヒロイン

(C)MBC
このようなムン・ヒジョンワールドが、父と息子時代の食い違った世界観という、父係中心で動くため、ヒロインは常に受身にならざるを得ない存在になってしまう。

「会いたい」はヒロインの性暴力を物々しく掲げたにも関わらず、他の性暴力の被害者の娘を持つ“ボラの母”の事件以来、スヨンの傷は蔑ろにされる。引いては性暴力という犯罪が持つ社会的な重みを、果たして脚本家は認知しているかと疑問に思うほど、彼女の傷は、彼女を待っていたカン・ジョンウと再会することにより一瞬にして癒されるようで、第20話になってやっと母親との短い対話で全ての痛みを解消してしまう。更に彼女を“殺人者”にしまう残酷な設定に、自身の痛みよりも、濡れ衣をかぶせたカン・ヒョンジュンを哀れに思う心の広い人にしてしまう設定は、ヒロインの傷をただの“素材”として使ったと疑われるに十分で、男同士の話の補助的な存在に格下げしてしまう。

この点は「私の心が聞こえる?」もポン・ウリも似ている。ポン・ウリはイ・スヨンほどの社会的なトラウマは抱えていないが、ドラマが進行するにつれ、彼女の痛みは遠ざかり、ただ“私たちのマル兄さん”の心配に明け暮れる脇役で満足するしかなかった。

そのため、常に恋の勝者はヒロインと主人公だが、彼らの恋は始まりと終わりだけだ。幼いころの事情による恋のきっかけはあっても、彼らの恋が成熟して行く過程は、復讐劇に潰されてエピソードとしてやっと残り、最後に「幸せになりました」という、虚しい結論だけを残す。

「私の声が聞こえる」もまた、ドラマは始まった際は、韓国社会で取り扱い辛い問題に触れたことで話題となっていた。これは「会いたい」も同様だった。しかしそれだけだった。ムン・ヒジョン脚本家は、自身が掲げた社会的問題を、いつも自身の隠されたテーマ意識“欲望に起因する受け継がれる恨み”という復讐劇を構成する道具のように使ってしまった。「私の心が聞こえる?」の後半、山に向かってしまったドラマの内容が大いに批判を受けたにも関わらず、ムン・ヒジョン脚本家は自身のこだわりを「会いたい」でも繰り返す。自身の過ちを反省せず繰り返す脚本家、ハン・テジュンらしいと言うべきだろうか。彼女自身が批判に耳を傾けない大人世代の姿そのものだ。

記者 : イ・ジョンヒ