【映画レビュー】“指を切り落とせるの?”「魔女」のぞっとする提案

OhmyStar |

※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。

映画「魔女」自ら魔女になった者と、誤解で魔女狩りされる者の物語

韓国は、韓国戦争の惨状により全てが灰と化したが、短期間で産業化に成功し、世界の大国と肩を並べる奇跡を成し遂げた。世界を驚かせた韓国の経済発展は“ライン川の奇跡”に擬え“漢江(ハンガン)の奇跡”と呼ばれるほど、漢江は韓国の産業化の象徴のような場所だ。

映画「魔女」の脚本と演出を担当したユ・ヨンソン監督は、「グエムル-漢江の怪物-」続編の脚本を書いた経歴の持ち主だ。漢江が生んだ“グエムル(怪物)”を取り上げたポン・ジュノ監督の「グエムル-漢江の怪物-」とその映画の続編を考えたら、「魔女」が最初のシーンで漢江を映すのは偶然ではない。「魔女」は、漢江と周辺道路上の多くの自動車、そして軒を並べる高層マンションを映すことで、経済発展の裏面、他でもない私たちが失った価値と孕んだ怪物について物語ることを示す。


周りの無関心から、自らを“魔女”にした女

新入社員のセヨン(パク・ジュヒ)は、上司のイソン(ナ・スユン)に報告書を提出し、ひどい出来だと叱責される。頑張るというセヨンの答えに、命でも掛ける自信があるかとイソンは皮肉る。激昂した二人の会話は、決まった時間内に報告書を完璧に仕上げればイソンの指1本を、失敗したらセヨンの指1本を切り落とすという、とんでもない賭けに発展する。

「魔女」は、セヨンを調べるイソンを通じ、愛されない存在として成長した一人の女性の悲しいストーリーを物語る。セヨンの正体を掘り下げる過程で暴かれるいじめ、復讐、執着は、ブライアン・デ・パルマの「キャリー」、三池崇史の「オーディション」、ロマン・ポランスキーの「ローズマリーの赤ちゃん」を自ずと思い浮かばせる。実際にユ・ヨンソン監督は主演女優のパク・ジュヒに、セヨンのキャラクターを演じる上で参考にするようにと「キャリー」「オーディション」「ローズマリーの赤ちゃん」を紹介したという。
子供の頃からセヨンの両親は病弱な姉の世話で忙しく、彼女には関心を注げなかった。学校で、会社で彼女は人からの関心を欲しがるが、周りは彼女に冷たい。セヨンが周りから感じる孤立と、人から愛されたいと思う気持ちは、「キャリー」の友達からいじめられるキャリー(シシー・スペイセク)の気持ちと同じだ。

「オーディション」で子供の頃から虐待された山崎麻美(椎名英姫)は「不幸だと思ったことはない。なぜなら、私の人生が不幸そのものだった」と話し、男たちへの復讐に乗り出す悪女だ。セヨンも「愛される者たちは全部死んでしまえ」と、似たような台詞を投げる。彼女は、無関心が与えた傷を、麻美と同じく苦痛で仕返しする。キャラクターの設定以外にも、復讐の方法論でも「魔女」は「オーディション」に似ている。

現代版の悪魔を取り上げた「ローズマリーの赤ちゃん」でローズマリー(ミア・ファロー)は、お腹の子供を奪おうという者たちに恐れを感じ、避けようとする。彼女は赤ちゃんのためなら何でもやると決心する。都市と魔女をリンクさせた「魔女」で、セヨンは辛うじて得た周りの関心を失うまいとあがく。

女鬼で読む韓国のホラームービーに関する本「月下の女哭声」で、著者のペク・ムンイムは「近代が失っている統一性と調和に対するノスタルジーを実現していたヒロインは、いまや近代的な物神性及び流動的なアイデンティティを実現する、大きく威力的な怪物になる」と書いている。著者が指摘した、新派の可憐なヒロインがお化けに化ける1960年代韓国映画の流れは、1990年代「狐怪談」に拡張しても意味を持つ。以降、競争と勝利を強調する私たちの顔は、「リング」の生存、「ヨガ教室」の整形で描かれた。

「魔女」は、学園と家庭を抜け出し職場へ入り、現代化が生んだ病弊に触れる。映画は、自ら魔女になった物と、誤解により魔女狩りされる者の2つの姿をセヨンとイソンに交互に投影しながら、加害者と被害者を隠喩する。「ある会社員」がジャングルの野獣のように弱肉強食の仕組みで血なまぐさい戦いを繰り返すサラリーマンの人生を、銃を握らせ表現したならば、「魔女」は魔女に恐怖という外皮をまとわせ、私たちの社会を覆っている歪んだ価値を批判しようと試みる。

「魔女」は素晴らしい目標に向け弓を引いたが、スコアは不十分だ。職場で繰り広げられる二人の戦いは、不当に立ち向かったり、多くの人が夢見る、上司への復讐など代理満足の面では一定の快感を与える。しかし、オフィスから出てしまえば物語は道に迷ってしまう。色んな人の口を借りセヨンに関するストーリーをあれこれ積み重ねるだけで、然るべき形につなげることには失敗している。ストーリーを集める過程でイソンはセヨンに執着するストーカーに成り果てる。

特に、イソンのストーリーで、姉のセミン(イ・ミソ)に会う部分は、映画的な飛躍が激しい。セヨンは今なぜそのような行動をするか理解できないため、共感しにくい。その上、「キャリー」「オーディション」「ローズマリーの赤ちゃん」の痕跡までちらつかせているため、落ち着きのなさと安易さはさらなるものだ。

「魔女」で褒めたい点は、イソンがセヨンに「どれだけ努力するの?命でも賭けられるの?」と叱咤し、続いて「今日の夜8時までに仕上げられなければ、指1本切り落とせるの?」と提案するシーンが与えるゾッとする感覚だ。セヨンはきれいに仕上げることができたが、上司であるイソンの指を切り落とすことはできなかった。ただ冗談で終わるだけだった。反対に、セヨンが約束を破った時はどうなったかが、大変気になるところである。

記者 : イ・ハクフ、写真 : ヒンスヨムゴレ映画社、ムービーコラージュ