「私のオオカミ少年」は“ファンタジーから始まりファンタジーで終わる”

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写真=映画社ビダンギル

特殊な情緒を共通点とするオオカミ少年と少女…大人のためのメルヘン

他者、つまり他の人は、人間にとって基本的に親密に近づいてくる対象というよりは警戒すべき対象としてみられがちだ。これは他者が暴力的な特性または殺意を持っていないとしても、ただ彼が他者だという理由だけで警戒の対象になるためだ。

「私のオオカミ少年」は、他者に向ける警戒の視線という偏見を“ロマンティックなメルヘン”に変える。平穏が他者によって砂の城のように崩されるという恐怖の感情の代わりに、ノスタルジーがそれを代替する大人のためのロマンティックメルヘンだ。

「私のオオカミ少年」の中の2人の主演キャラクターは一般的な情緒ではない。特殊な情緒という共通点を持つ。オオカミ少年(ソン・ジュンギ)は人間の姿をしているが、人間の言語と思考の体系を備えていない。人間とオオカミ、そのどこかに位置する特殊なところに属する。少女(パク・ボヨン)も同様だ。肺の病気の治療のため都会を離れ、療養で田舎に来なければならないためだ。

主流から疎外されたり、主流から離れた男性と女性の出会いはマイナスなイメージから始まる。オオカミ少年は、ご飯を食べるがスプーンが使えない。がつがつと食べる。人間の言語は分からず、ひどい匂いまでする。自然と少女にとってオオカミ少年はマイナスな印象でしかない。

しかし、オオカミ少年を見る少女の視線は悪いものばかりではない。一緒にご飯を食べながら興味を持ち始める。ところが、少女の興味が興味以上に拡大する事件が発生する。愛するお姫様のためなら危険を恐れない騎士のように、オオカミ少年は少女を襲う大きな鉄筋の塊から肩一つで守ってくれた。少女はこの事件によって“信頼”を築き始めることになる。オオカミ少年を信頼できる人として見るようになる。この時点からオオカミ少年は少女のための“騎士”になった。

騎士のストーリーに苦難はつきものだ。これは龍の襲撃または魔女の誘惑などのような形で表れるが、「私のオオカミ少年」も同様だ。少女がオオカミ少年を信頼し始めてすぐ、2人の男女には彼らの間をふさぐ障害物ができてしまう。

思いがけない障害物により、オオカミ少年と少女は遠ざかることになり、これでオオカミ少年という“ファンタジー”が色褪せる代わりに、少女が大人の女性に成熟する“現実”が入ることになる。ファンタジーが色褪せた場所には、大人になる少女の現実が最後まで位置することになるのだ。

しかし、「私のオオカミ少年」は“大人のためのメルへン”というアイデンティティを失わない。最後までメルヘンというアイデンティティを現実の中で完全に手放すことはしない。オオカミ少年と少女の間で花咲いた初々しい騎士道精神というファンタジーが、逆境の前で試練に立たされ現実に戻るとしても、結局はバネのようにファンタジーに戻ってくる。ファンタジーから始まってファンタジーで終わるストーリーであるため、“大人のためのメルヘン”になれる。「私のオオカミ少年」は“ロゴス(理性)”で鑑賞する映画ではない。“パトス(感情)”で鑑賞する“大人のためのメルヘン”だ。

記者 : パク・ジョンファン