【映画レビュー】「ハン・ゴンジュ」あなたたちは皆加害者だろう…そうじゃない?

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※この記事には映画のストーリーに関する内容が含まれています。
写真=「ハン・ゴンジュ」ポスター

我々が生きる世の中は、どれだけ多くの“ゴンジュ”を殺さなければならないのだろうか?

旅客船セウォル号沈没事故が起きた翌日。狂ってしまいそうな喪失感を抑えきれず、映画館に向かった。悲劇からの希望を見たいという切実な願いが私を映画「ハン・ゴンジュ」に向かわせた。数十人の動物に強姦された女子学生という題材で映画そのものから希望を見出すことは難しいと予測したものの、非常に立派な“エンディング”という言葉が少なくとも最後には希望を抱かせてくれるはずだと早とちりしていた。その結論は完全に間違ったものだったのだが。

映画は最初から最後まで観客に繰り返しあるイメージを見せる。最初に扇風機の前に立っていたゴンジュの学校の先生は、映画の後半に性的暴行をしたゴリラが扇風機の前に立っているシーンで繰り返される。男のせいでゴンジュを捨てた母親は、やはり恋人の警察のせいでゴンジュを手放す先生の母と重なる。さらに性的暴行で妊娠した友達が水に飛び込んだことも、水に飛び込んだハン・ゴンジュの姿と重なる。自殺する前にかけた電話をゴンジュが受けなかったことと同様に、ゴンジュが水に飛び込む前にかけた電話をウニは受けない。映画は、繰り返される。

この繰り返しを通じて我々はゴンジュを傷つけた“直接的な加害者”と“間接的な加害者”である“社会”を同一視することになる。最大限ゴンジュの面倒を見ようとした学校の先生も、結局ゴンジュの手を握ってくれなかった先生の母親も、お金を受け取って嘆願書に署名させる父も、ゴンジュの面倒を見てくれなかった母親も、ゴンジュをせき立てた警官も、最後の電話を受け取ってくれなかった友達も、みんな直接的な加害者の行為と重なり、加害者の一部になる。さらに被害者だったハン・ゴンジュも友達の電話を受けなかった事実を明かし、もう一人の加害者だったことを明かす。このように映画は私たちはみんな加害者ではないかと繰り返し聞く。

話題になったエンディングシーンでハン・ゴンジュが海に落ちてしまった時、私は簡単にその先を予測することができた。ハン・ゴンジュは死んで、世界によってもう一度水に溺れるようになるだろうと思った。水に落ちて自殺したゴンジュの友達を持ち上げた隊員たちがロープを手放してしまい死体を再び水に落としたシーンを通じて、私は十分にそれを予測することができた。ゴンジュは自殺するが、映画がずっとそうだったように、世界はもう一度彼女を傷つけるはずだった。

写真=里共同体映画社
幸いなことだったのだろうか、私の予測とは違ってゴンジュは水の上に上ってきた。ひたすら自身の力で。彼女は死ぬ瞬間に生きたくなるという希望を最後まで捨てず、水泳を習った。彼女は加害者だけの社会でどうにか生きていくためにじたばたし、水から上がってきて人生を生き続ける。このシーンを通じてこの映画は希望を捨てなかった。安堵感。どうしても生きていかなければならないという最後の希望を映画は握る。

しかし、この映画は希望だけでは終わらない。水から上がってきたゴンジュは画面の上の方、つまり遠い海の方に向かう。世の中からの自由、解放だ。しかし、その後ゴンジュは再び画面の下、ゴンジュが飛び降りた大橋の方に泳いてくる。画面ではまるで観客に近づいてくるように見える。ここでハン・ゴンジュは最後に問う。

「私は最後の希望をつかんだけど、あなたはどうする?」

映画を観た観客の心が痛いのは、潜在的な加害者になる可能性もある私たちに投げるその質問のためだ。世界は依然としてゴンジュにはあまりにも厳しいところで、我々がどうやってそれをより良い状態に変えてあげられるかは見えてこない。世の中は同じものだと私たちは無意識のうちに信じているから。

「ハン・ゴンジュ」は最初から最後まで簡単な映画ではない。それが私たちの社会の姿を見せているためなおさらそうだ。映画が終わった後、どうしようもなく悲しい気持ちになって非常に辛かった。繰り返しテレビで流れる悲劇的なニュースを見ると、もっと辛い。果たして我々が生きる世の中はどれだけ多くの“ゴンジュ”を殺さなければならないのだろうか。

記者 : パク・ジジョン