【映画レビュー】「伝説の拳」カン・ウソク監督流の映画に2%だけ欠けているのは?

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写真=シネマサービス

無難すぎる映画「伝説の拳」の落とし穴

映画「伝説の拳」は、いい娯楽映画だ。ストーリーとプロット(作品の枠組み、構成部分)に比べてランニングタイムがちょっと長い感じはあるが、全体的に映画は良かった。「映画というものは、無条件に楽しめるものでなければならない」というカン・ウソク監督の持論が久しぶりに際立った作品だったとも言える。

映画が良かった理由は、何よりもその無難さにある。カン・ウソク監督のこれまでの作品と同じように、「伝説の拳」は、観客を決して不快にさせたりしない。表面上は、とても残酷で居心地の悪そうな異種格闘技をメインテーマにしているが、劇中の異種格闘技は、俳優たちの身を投げる熱演にも関わらず、残酷なものよりも仲睦まじいもののように感じられる。異種格闘技が現実的なものではなく、ファンタジーのように描写されたためだ。

異種格闘技が映画のメインテーマであり、主人公たちがこれを通じて再会し、自分たちの過去を振り返ってみるが、カン・ウソク監督は、異種格闘技そのものに対していかなる判断も下さない。ただ、21世紀の人々がボクシングより異種格闘技に熱狂し、異種格闘技を通じてお金が交わされるという事実だけに集中する。カン・ウソク監督にとって2013年の異種格闘技は、1970~80年代のボクシングと同じものだ。それは、個人が上流階級にあがる道、資本の流通手段としてのスポーツというところからだ。

このような観点は、最終的に人々の趣向を見抜き、それに合わせて人々が望む映画を作ろうとするカン・ウソク監督の哲学と密接にかかわっている。カン・ウソク監督はこれまで、多くの人々が楽しむことのできる商業映画にこだわってきた。異種格闘技の残酷さが足かせなら、その残酷さを取り除けば良いだけのことだ。

問題は、その素材に対するアプローチがあまりに無難だったため、かえって映画の劇的緊張感を妨げてしまっているところにある。この映画では異種格闘技のほか、社会的に問題になっている国家情報院、再開発、学校内のいじめ、スポーツの八百長問題などの素材を味付けのように登場させるが、これらを一つずつ集中的に切り込むのではなく、表皮的に並べるだけで、十分に社会的メッセージを投げかけられる素材であるにも関わらず、適当にちょっと触れてみるだけで終わるのだ。

そのため、この映画は長いランニングタイムにも関わらず、観客に大きなインパクトは与えない。全般的に面白くないとは言えないが、だからといって、観客を夢中にさせるものでもなかった。原因は、問題の異なる話が並べられているためだ。メニューがあまりにも多いお弁当屋よりも、一つのメニューだけにこだわった専門店の商売の方が上手くいくはずなのに、「伝説の拳」は、一つの専門料理よりも、メニューの数に執着しているようだ。


登場人物の典型性

商業映画として「伝説の拳」が持つもう一つの特徴は、登場人物の典型性だ。この映画は最初から最後まで、中年男性向けのものであることを強調している。映画は主人公たちの輝いた過去と惨めな現在を適切に交差させて、ターゲット層の呼応を非情に効果的に呼び起こしている。思い出はいつも美しく、現実はいつも辛いものであり、学生時代に17対1の喧嘩に巻き込まれた経験のある人はほぼ皆無で、また、大人になった今、現実的に食べていくことに何の不自由のない人も多くはないためだ。

例えば、サラリーマンの代表例であるユ・ジュンサンが演じるイ・サンフンをみてみよう。学生時代にファイターだった彼は、今はお金持ちの友達の下で雑用をしながら暮らしている。部長という役職を持ってはいるものの、天下りで入社したため、会社の仲間たちとも仲良くできない。彼は、海外に留学している家族にお金を送金しながら一人暮らしをしている家長であり、ひたすらお金を稼ぐために、昼間からマスコミの編集長に会い、あらゆる侮辱にも耐えながら爆弾酒を飲む。

現在のサラリーマンの中で、果たしてこのようなイ・サンフンの姿を見て共感をしない人がいるだろうか。我々は結局、お金を稼ぐため、気に食わなくても職場の上司の前では笑顔をみせる。その方法や度合いに差はあるだろうが、本質は変わらない。だから、中年の男性たちはこの映画を見てすごく共感するのだ。

ファン・ジョンミンが演じるイム・ドクギュはどうか。私は個人的にイム・ドクギュという人物に共感してしまったが、それは私も彼のように娘も持つ父親であるためだ。思春期の娘とどのように関係を築いていけば良いのか分からなくて困っているイム・ドクギュの姿は、彼だけの問題ではない。まだ、この社会の父親たちは、娘と会話する方法をよく知らない。

しかも、その娘が学校でいじめられている。友達にいじめられ、家に戻ってくれば家族に八つ当たりする。全てがパパのせいだと言って娘の前で涙を流すイム・ドクギュに共感できるのは、もはや映画がフィクションに過ぎないことを意味している。そんなことはないようにと願うが、現実では、自分の娘もいじめの対象になる可能性は存在し続ける。果たして私なら、映画のような状況で、加害者の学生たちにどう対処するのか。娘が殴られて戻ってきたら、私は父親としてどんな措置を取ることになるだろうか?

ただ、このような登場人物の典型性が強調された結果、映画は躍動性を失った。もちろん、私のような中年男性のサラリーマンならすぐに映画に入り込んでしまうはずだが、そうでない人々にとって、この映画はあまりにもありきたりな優しい物語だ。主人公たちが友達同士の義理のために最後の試合を諦めてしまうなんて、果たして現実世界ではそう簡単に収まるものだろうか。


そして、俳優たち

あまりにも無難すぎて、かえって面白さを失った映画「伝説の拳」。だが、それにも関わらずこの映画が多くの人々に愛されているのは、映画に登場する俳優たちのおかげだ。ファン・ジョンミンからユ・ジュンサン、ユン・ジェムン、チョン・ウンイン、そして子役タレントまで全員が熱演したおかげで、映画は躍動感を保った。

特に、異種格闘技は俳優としてこなすことが難しいシーンが多かったはずだが、俳優たちは見事にその役をこなし、拳の上に、お金を稼ぐために孤軍奮闘する男の悲しみを乗せ、観客の共感を呼び起こした。異種格闘技の残酷さを払拭させたのは、あくまでも彼らの熱演のおかげだ。

今もまだ、「伝説の拳」は大々的に上映中だ。「アイアンマン3」に立ち向かう韓国映画としては不足感が否めないが、これまでのカン・ウソク監督の映画にあまり違和感を感じなかった観客になら、是非一度オススメしたい。特に、娘のいる中年男性には必見である。

記者 : イ・ヒドン