“第2のキム・ギドク&PSY”を目指すには?文化ルネサンスのための条件

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キム・ギドク、PSYの成功を乗り越え、真の大衆文化ルネサンスを夢見るための前提条件

9日の早朝(韓国時間)、世界3大国際映画祭で「金獅子賞」を受賞したキム・ギドク監督は、PSYと同じく、韓国ではめったに見られない“突出型の天才”である。しかし今の所、世界で最も注目されている人物はキム・ギドクとPSYのみである。一人は映画を通じて世界的な巨匠として認められ、もう一人は歌でPOPの主流である米国マーケットを強打した。

キム・ギドク監督の国際映画祭での受賞は、ベネチア映画祭が初めてではない。以前からキム・ギドク監督は地道に国際映画祭に出品し、今回のような大賞ではないが、主な賞を何度も受賞してきた。

そのため、キム・ギドク監督が11日に放送されたSBS「強心臓」で言及したように、世界的に有名なデザイナーの中にキム・ギドク監督の映画ファンが多いということは、笑い話ではない。韓国では徹底して部外者扱いだったが、海外ではむしろ韓国を代表する監督と呼ばれる人がキム・ギドクである。

アメリカ進出に成功したPSYに続き、ベネチアで朗報を届けたキム・ギドク監督のお陰で、韓国は暫くの間、お祭りムードに包まれた。ベネチア映画祭での金獅子賞受賞以来、主なマスコミはキム・ギドク監督を特筆大書し、これを韓国映画の快挙だと紹介した。

もちろん、キム・ギドク監督の受賞と共に訪れた韓国映画のルネサンスには、韓国の主流が強調する“国力”にも役に立ったのかも知れない。

しかし、キム・ギドク監督は、権威のある国際映画祭で賞を総なめしたにも関わらず、“非主流”だったし、今もシネマコンプレックスや配給会社が独占している韓国の映画市場では、徹底して“非主流”として呼ばれている。幸いキム・ギドク監督の金獅子賞受賞後、彼の受賞作「嘆きのピエタ」を求める観客が増えたものの、韓国市内の映画館で良い時間帯に「嘆きのピエタ」を見ることは、依然として簡単なことではない。

キム・ギドク監督のことを“非主流の勝利者”または“部外者の文化革命”だと表現する。特に制作費1億5千万という低いコストで「嘆きのピエタ」を作り上げたキム・ギドク監督の才能には驚きだ。忠武路(チュンムロ:韓国の映画界の代名詞)に代表される韓国映画界では「部外者」呼ばわりされたキム・ギドク監督だが、世界的に認められた彼の受賞記録は、既得権中心の主流文化で団結している韓国社会では、新しい衝撃として受け止められている。

大学のような一般教育を受けたりしたものの、巨大な資本の力を借りたりもせず、世界の人々が感心する名作を作り出したキム・ギドク監督。今や巨匠のレベルに達したキム・ギドク監督の足取りは、キム・ギドク監督が金獅子賞を受賞してから、慌しく芸術映画への支援と予算を増やすと乗り出た韓国映画界と文化担当当局に示唆するところがある。

純制作費用が1億5千万ウォンの低予算映画にも関わらず「嘆きのピエタ」が大きな賞を受賞できた秘訣は、資本主義の急所である告発を母性愛や救援と組み合わせ、芸術に昇華した演出のお陰だ。同じく、米国進出を念頭においていなかったPSYが米国で成功し続けている理由も、PSY特有の感覚を掲げた「コンテンツ」のおかげだ。

結局大衆を虜にする並外れのコンテンツの力は、主流、非主流を問わず「表現の自由」と「多様性を求める社会的雰囲気」から始まるものだ。しかしキム・ギドク監督のように、低予算、またはインディーズで活動する監督とバンドを「非主流」と称し、主流が抱えて行くべき対象としてしか見ない姿勢は、多様な文化の発展において何の役にも立たない。

更に、この国はキム・ギドク監督とPSYのようなアーティストを夢見る子ども達にさえも、エリート主義的、画一的な、一方通行の教育と思考を持たせる。某保険CMのように、全ての人が同じように考え、行動するはずか無いのにである。

国家レベルで「第2のキム・ギドク」を養成するためには、芸術、独立映画に対する支援を増やすことも必要であろう。しかし、キム・ギドクのような大衆の心を動かすアーティストの輩出は、形だけの支援と海外市場進出を念頭に置いた戦略的企画だけでは、達成できない。

芸術家たちが思い切り自身の才能と個性を展開できる自由と教育システム、そして多様性が共有される文化の裾野の拡大の後押しなしでは、真の芸術の花を咲かせることはできないだろう。今のように、資本と権力を持つ主流の好みによって多様な個性が一元化される社会で、人並みはずれた天性で世界を熱狂させるキム・ギドク監督とPSYは、真夏の夜の甘い夢に過ぎない。

記者 : クォン・ジンギョン