【PEOPLE】イ・ジョクを構成する5つのキーワード

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イ・ジョク

「時々ね、俺って根っからの浮き草人生だなって思うんだ。好奇心は旺盛だし、アレやりたいコレもやりたい、コレやったら今度はまたアレも。(中略)インタビューの帰り道に死んじゃっても大丈夫。十代の頃からそう思ってきたし、ただ頑張って生きているのであって、一生の課題があるとか、そう言うことは無いと思うから。正直言うと『ミュージカルができなくなるなんて』みたいな事は考えるかも。だけど昔は飛行機に乗るたびに思ってたんだ。今死んでも悔いはないな、って」――イ・ジョクイ・ジョク、「In Seoul Magazine」のインタビューから


キム・ジンピョ

イ・ジョクとは幼い頃からの知り合いである後輩。
イ・ジョクがアルバムを準備していたとき、当時高校生だったキム・ジンピョを誘い、彼の初デュオである「パニック」を結成した。イ・ジョクは勉強を続けていた母親と共に、書斎で本を読む子供時代を過ごした。バンドをすることを決心してからは、勉強を続ける必要性を見出すことができず、大学への進学も諦めた。だが両親の説得によりソウル大学へ進学した。一方キム・ジンピョは高校生だった当時、ジャズを習っている最中にギャングスタ・ラップに魅せられ、パソコン通信で「hammer57」と言うハンドルネームで活動しながらヒップポップ音楽の情報を共有していた。優等生と熱血漢の10代、またはビートルズとNWA。性格も好みも全く異なる二人の青年がパソコン通信時代の青春を共有し、パンクとモダン・ロック、ラップが混ざった「誰も」、青春の迷いを歌った「かたつむり」、そしてメジャーの中で最も成功したマイナーソングである「左利き」が誕生した。自ら作詞、作曲、編曲した曲である「時には世の中がひっくり返るといって/僕のようなヤツらがかき回すといって/皆同じ手を上げなければならない」と歌った人気デュオとなった恐ろしい子供たちが誕生した瞬間であった。

チェ・ソンウォン

伝説のグループ「野菊」のメンバー。そして「パニック」をデビューさせた制作者でもある。
彼がプロデュースした「A-tenn」というバンドと親しくしていたイ・ジョクと知り合い、彼が作った曲を聞いて「パニック」を作る決心をした。チェ・ソンウォンは単なる商業的な音楽より、「歌謡曲の枠組みを飛び超えた音楽」を制作したかった。そのために「パニック」の2ndアルバムをイ・ジョクとキム・ジンピョの思うがままに任せるという記念すべき決定を下した。「パニック」の活動をしながら本名で季刊誌の「レビュー」に大学独自の若者文化がない事を嘆く文を書いていたイ・ジョクは、1stアルバムを作っていた当時“ショービジネス業界の望ましくない姿”に接し“尖っていた”状態だった。そのため、2ndアルバムで社会全般を批判しながら当時ヒットしていた歌謡曲の形から外れた音楽を出していた。ここでもキム・ジンピョは学校の教師たちを「ただ殴るだけ/過ちを知らない貴方は汚く鈍い獣」と描写した「虫」の歌詞を付け加えた。マスコミでは「パニック」の2ndアルバムに対して、「荒い鼻息、何かというと毒舌」と言う見出しを付け、ほとんどの曲は放送されることはなかった。前世代の伝説と1990年代の若者たちが出会い、後にイ・ジョク自らが「今考えると、本当に感心する」と評するアルバムが完成した。

ハン・サンウォン

グループ「ギグス」で共に活動したミュージシャン。
素晴らしい演奏力を持つメンバーが集まった「ギグス」は、商業的な成功より一緒に集まって音楽を演奏することを楽しんでした。イ・ジョクは、“明るく楽しみながら音楽をする”メンバーたちと音楽を共にするようになり、「ここではいきなりお前を殺してしまいたい、といったような歌詞が出てこなくなった」と語った。知り合いが悪い事をしても「ホントに?」という反応より、「それもアリかもね」と理解しようと努力する一方で、自分の事を「メランコリー」や「センチメンタル」が似合わない、「現実と想像のバランス」をしっかり捉えていた彼の性格が、「ギグス」の活動を通じて音楽的な面でも表れ始めたと言える。実際、当時のハン・サンウォンは、イ・ジョクについて「バンド生活を10年以上してきた僕から見ても(バンド生活を)上手くやっていると思う」と語っている。世間に対し鋭く尖っていた若者が、バンド音楽を通じてより世間の中へと足を踏み入れ始めた。

チョン・ジェイル

イ・ジョクをはじめとする多数のミュージシャンが「Ctrl+C(コピー), Ctrl+V(貼り付け)」して隣に置きたいと言った天才ミュージシャン。
「ギグス」の活動で始めて出会い、「ギグス」の全メンバーが参加した1stアルバムを皮切りに、イ・ジョクの全てのソロアルバムに参加した。特にチョン・ジェイルが共同編集者として参加した2ndアルバムは、イ・ジョクの音楽人生において分岐点と言うに相応しい。このアルバムにはバンド音楽とエレクトロニカが混ざっており、「乾いた空を走り/僕が君に抱きつくことができるなら/この体が砕けてもいい」と歌う「空を走る」と「僕が捨てたものはどんな愛だったのか、一生に一度の熱いトキメキだったのか」というリコールが込められた「その時は知らなかった」が、一緒に収録されていた。また憂鬱な雰囲気の「ある日」は「パニック」の2ndアルバムをグレードアップしたかのようで、残酷な童話のような歌詞と綿密な構成やドラマチックな展開が見られた「おもちゃ戦争」はイ・ジョクがこれから聴かせてくれるミュージカルに近い、華麗な曲たちの始まりでもあった。こうして彼は過去を整理し、現在を示しながら、未来を暗示するまで青春のひと時を過ごした。そのとき、彼は数え年で29歳だった。

ジェ・ブルチャル

イ・ジョクの短編小説集「指紋ハンター」に含まれた「ジェブルチャル(「私のせいです」という意味の名前)物語」の主人公。
「文学とは難しく、真面目で、窮屈だという考え方を革命的に捻って」見せてくれたフランツ・カフカが好きで、いつか“ジャンルを特定出来ない本”を書きたいと思っていた彼は、「指紋ハンター」によって超現実的な物語を繰り広げた。童話的な物語の中にさりげなく見え隠れする社会風刺は「パニック」の2ndアルバムより深いものとなり、文体はまるでイ・ジョクがナレーションをしているように、今この瞬間の話を語り聞かせるような印象を強く与えた。メッセージはより隠喩的な表現に変わり、叙事的な構成も強まった。いくつかの物語が集まって一冊の本になったという点で、「指紋ハンター」はアルバムのような作品である。イ・ジョクの音楽はそれぞれの曲はもちろんの事、アルバム全体を通して叙事的な流れを見せる語り手による音楽へと変わっていった。

キム・ドンリュル


イ・ジョクの仲のいい友人の一人。プロジェクト・チームの「カーニバル」を共に勤め、現在は同じ事務所に所属し、お互いのアルバムにも参加した。
キム・ドンリュルは「いい歌詞を書く人は多いけれど、発声や発音まで考える人はそういない」とし、時々イ・ジョクに作詞を依頼している。特に二人で作った「ガチョウの夢」は「魔法の城」以後、全ての世代が最も好んで歌える不朽の名曲。炎のような10代を過ごし、プロミュージシャンとなった彼ら。過去より安定し、未来より不安な、まさにその時期の絶望と希望が交差する中、切ない声で「私には夢があります、その夢を信じています」と歌っていた。しかし先輩歌手のイン・スンイがこの曲をカバーして歌うと、普遍的な夢と希望を温かく歌っていた曲の雰囲気が変わった。一方で、「自分が憎かった/結局自分はこれだけの人にしか思えず/長い夢は空しい幼い頃の錯覚だった」、と青春の絶望の最後に救いのような愛を欲した「空を走る」は、ホ・ガクがMnet「SUPER STAR K2」で歌ったことでより希望に満ちた雰囲気が強調された。青春の歌が全ての世代にアピールする曲に変わり、より多くの人に愛されたことで受け取られる意味も変わった。そしてイ・ジョクは30代となった。

カン・テギュ

音楽評論家。同時にイ・ジョクの所属事務所であるミュージック・ファームの経営者でもある。
ミュージック・ファームにはイ・ジョクだけでなく、キム・ドンリュルやイ・サンスン、ジョン・パクなどが所属している。時に彼らはお互いのアルバムを手伝ったり、音楽番組に同時に出演したりもしている。大先輩のチェ・ソンウォンの胸の中で覇気に満ちたアルバムを作っていたイ・ジョクが、音楽評論家である経営者の支援の下で気の合うミュージシャンたちと暮らしていたと言える。彼はミュージック・ファームの下で、「良かった」が収録された3thアルバム、「洗濯」が収録された4thアルバムを発表した。この二枚のアルバムは以前と比べ、より些細な日常と恋について語っており、4thではある人の恋と別れまでを、そのまま一枚のアルバムに詰めている。結婚して子どもが生まれ、「舌」や「下」のような曲を書くのが不自然となってしまった彼は、外の世界より自分の話を淡々と語るようになった。イ・ジョクの炎のような青春を覚えている人には意外に映るかもしれない変化である。しかし、人生の変化を真正面より見つめながら自分の音楽を追い求めた結果である。そうやって、イ・ジョクは音楽と人生を共に歩んでいる。

キム・テホ

イ・ジョクの公演に「“武道”と一緒に歩こうか?」と言う内容の花束を贈った芸能番組の演出家。イ・ジョクの3thアルバムに収録されている「一緒に歩こうか」は、MBC「無限に挑戦」のBGMとして使われ、新たに人々の関心を集めた。また、「良かった」も大きなヒットを飛ばし、「洗濯」は音楽チャートで1位を記録した。この曲はピアノと共にイ・ジョクの静かな歌詞で始まり、徐々に起承転結がはっきりするドラマチックな展開を見せた。昔より歌詞を扱う幅は狭くなった。その代わり曲とアルバムの息は長くなった。ロックバンドの編成を底に敷いたサウンドは以前より簡潔になったが、その構成は段々緻密になっていた。歌詞にメロディーがついて詩となり、詩がドラマチックな展開と出会いミュージカルになった。そして過去の鋭さが消えた代わりに、段々と幅が広くなる涼しげな声で曲一つをドラマとして描き出している。完熟しているが情熱を失わず、緻密な構成の中に普遍的な感情を組み込んだ。無粋にならずに全ての世代が同意できる、イ・ジョクの生き方。共に歩こうか。

キム・ビョンウク

イ・ジョクをMBC「ハイキック3~短足の逆襲」(以下「ハイキック3」)の音楽監督でありレギュラーとしてのキャスティング演出家。
イ・ジョクはこの作品のナレーションも担当しており、彼の語りは「指紋ハンター」の小説の語り手と似ている。またナレーターである彼の役割は“歌う語り手”という彼のアイデンティティとよく似合っている。「ハイキック3」を前後にして、彼は様々なバラエティ番組に出演した。MBC「ユ&キムの遊びにおいで」ではチョン・ジェヒョンと一緒で、「無限に挑戦」では曲を作っていた。色んなグループを作り、様々な音楽に挑戦し、20代の頃には予想できなかった活動をした。だが、彼の全ての生き方は音楽を媒体に統合され、彼を始めとする1990年代にデビューした何人かのミュージシャンは、音楽とバラエティを組み合わせながら新たな転機を迎えた。何かを語ろうと歌う前に、歌いながら生きる人生。曲のイメージが浮かべばそれに最もよく合う歌詞を書くようになった21世紀の吟遊詩人。

ユ・ジェソク

「無限に挑戦」でイ・ジョクと「たるんだかたつむり」を結成したMC。
最近「狎鴎亭(アックジョン)の遊び人」と「おっしゃるとおり」に続き、「部屋の隅の遊び人」を発表した。イ・ジョクは「無限に挑戦」でユ・ジェソクの話をもとに曲を作り、「狎鴎亭の遊び人」と「おっしゃるとおり」はユ・ジェソクの青春とその青春を経験した人が今だから話せることを盛り込んでいた。今のイ・ジョクはいつか再び「パニック」を復活させる事も可能だし、キム・ドンリュルとも相変わらず仲が良い。また、時にはユ・ジェソクとサングラスをかけて楽しく遊ぶこともある。怖いもの知らずの青春は終わった。感覚も過去とは違う。しかし、人生は続き、歌うべき物語も、共に音楽をする人たちもたくさんいる。覇気というエネルギーは失ったが、成熟さが作り出す鮮烈さがその隙間を埋めている。こうしてイ・ジョクは歌い続ける。挑戦は無限に、人生は永遠に。

記者 : カン・ミョンソク、翻訳:イム・ソヨン