「僕の妻のすべて」ミン・ギュドン監督“映画が一本できることは奇跡だと思う”

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写真=「僕の妻のすべて」ホームページ
話の始まりは、イム・スジョンの“下衣失踪(下に何も履いていないように見える姿)”ファッションだった。神秘さと清楚さ、それに高品位なイメージまで持ち合わせている女優を、ミン・ギュドン監督は大胆にも地上に引きずり降ろした。それが、不時着でなく、スムーズなソフトランディングで成功した。これまでイム・スジョンに見られなかった、彼女の年頃の感性を見出すことができたのだ。

確かに「僕の妻のすべて」でイム・スジョンは、演技の幅がさらに広まった。ミン・ギュドン監督が映画の序盤にそれほど衣装に固執したのも、イム・スジョンの従来のイメージに新しさを加えるためのプロセスだったのだ。

ミン・ギュドン監督のイム・スジョンへの片思いは、彼が制作を担当した「あなたの初恋探します」の遥か昔の、映画「箪笥」にまで遡る。当時カメラワークを通じて発見したイム・スジョンの魅力に、ミン・ギュドン監督は溺れてしまったという。「僕の妻のすべて」ではこのようなイム・スジョンを全力で撮るために、2.35:1の広角レンズを使って脚を長く映したという。

「シャルロット・ゲンズブールをモデルにしました。知的ながらも冷笑的で、スマートな女性。そのような雰囲気を出すために、衣装を全部は着ないのはどうかと話したんです。イム・スジョンはただ脱いだのではなく、本当のヨン・ジョンインになって撮影現場を歩きまわりました。下着にTシャツ1枚をまとって歩きまわったんです。初めは人々がそんなイム・スジョンの姿を受け入れられませんでした。彼らの認識に、イム・スジョンに対する枠が明確にあったんです。

その枠が崩れると、スタッフたちもイム・スジョンのそんな姿に称賛を贈りました。イム・スジョンさんも現場で殻を破ったんです。意味的に、物理的に。ヨン・ジョンインになろうとせず、その人物がイム・スジョンに入るようにしようと言いました。キャラクターをイム・スジョン化させる。矢印の方向を逆にしたんです」

イム・スジョンの露出?それ自体が目的ではなかった

話題になっていたイム・スジョンの露出と代役についての部分も、ミン・ギュドン監督の考えは明白だった。企画段階から該当シーンに徹底していたのだ。

「露出については徹底して計画に従いました。本人がやらなければならないこと、準備しなければならないことはやらせて、その他の部分は演出しました。イム・スジョンさん本人はもっと露出する気もあるようでしたが、映画は15歳観覧可の水準に合わせて何かを見せようという目的だったんです。

(露出で)刺激を与えるのが目的ではありませんでした。自然な既婚者の日常を見せたかったんです。イム・スジョンさんが実際にきっちり着こまないで現場を歩きまわる姿に、マネージャーたちはそこまで監督のことを信じてもいいかと心配するほどでした。それだけ、彼女の変身ぶりに親しい人も驚いたみたいです」

ミン・ギュドン監督の言葉で、今回の映画でイム・スジョンが演じたキャラクターの性格をさらに明白に理解できる気がした。俳優の態度の面を見ても、イム・スジョンもやはり現場で監督を信じてついていく方だったという。

「イム・スジョンさんが作るキャラクターに共感して映画を撮りました。彼女を見ていると、寂しさがなくなるような気がしました。映画を作る度に『また誰か僕のことを思い出してくれるだろうか。観客が僕の話を聞いてくれるだろうか』と悩んで質問を投げます。そのような質問の中で自信を出そうと頑張ったりもしますし。僕自身の勝手な哲学に加えて、何か新しいものを探そうと頑張った痕跡が、今回の映画に盛り込まれていると思います。僕の映画人生の、一つのチャプターのように」

イム・スジョンを通して見た、自分自身…「ジレンマを抱えていた」

ミン・ギュドン監督は、世の中への好奇心に満ちているイム・スジョンの姿を女子大生に例えながら「羨ましさを感じた」と告白でない告白をもした。最近ギターを学ぶ味を会得しているイム・スジョンを自身と比べながら。

「僕の場合、次第に好奇心が消えていますね。人生の秘密について多くのことを知ってしまったからかも知れません。ギターも20年近く弾きましたし、絵も好きだったんですが……聞いてくれる人がいなかったからかな(笑) 最近は本質的な質問を投げています。生きるとは何か、などの。

映画をやりながら多くのものを失いました。他の監督はどうか知りませんが、映画一つを作るためには僕の全ての日常を猶予しなければならない、ジレンマに落ちています。日常の全ての瞬間を集中して注がないと、ことが進まないんです。友達にも会わず、音楽も聞かずですね。音楽と美術、人生が豊かに映画に盛り込まれなければいけませんが、いざそれを作る人はそういう生活ができないジレンマとでもいいましょうか」

しばらくイム・スジョンの絶賛に浸っていた中で出たこのような彼の話に、雰囲気は真剣になった。そのようにもなったはずだ。大学時代にはカフェで流れる音楽に合わせてギターを演奏できるほどの実力の持ち主で、美術にも人並み以上の関心を持っていた彼だったからだ。

映画に対する結果が観客の手に渡された今となって初めて、ミン・ギュドン監督は日常を戻そうとあえいでいるという。尋ねると、最近はその一環として水泳をしているそうだ。

「沈黙をそのままにしておかず、何かを話し続けなければならないの!」

ミン・ギュドン監督は「僕の妻のすべて」の台詞の一部を挙げた。映画が日常に食い込むことに伴う喪失感を減らすためにも、彼はできる限り力を抜いて作品を作ろうと務めるという。時にはあまりにも完璧な準備が、却って何かのスタートを遮る、妨害要素になり得ることはないだろうか。ミン・ギュドン監督は、次第に映画を“大雑把に”作らなければならないという言葉に共感しているようだった。

「僕は運命と偶然を信じます。そうでなくては到底作れないのが映画ですから。僕もそうですし、僕の多くの監督友達を見ると、決まった期限までにシナリオを書かなければ映画にすることができませんし、そのためにはまた毎回何かプロセスを経なければなりません。ただ考えるだけで1年、2年が経つこともあります。

人生を生きている足跡はあるのに、いざ映画は作れない人生も多いです。それで、映画が一本作れたなら、僕はそれを奇跡だと思います。そうでなくては作ることができないんです。考えてみると、映画を作るのは、日常を通じて人生に接しようと頑張ることのような気がします」

ミン・ギュドン監督の言葉にあまりにも厳粛になる必要はなさそうだ。映画人の苦境と悩みを理解してから、さらに頑張ってみたらどうだろうか。思ったより奇跡は近くに潜んでいるかも知れないから。

記者 : イ・ソンピル