【PEOPLE】TEDDYを構成する5つのキーワード

10asia |


TEDDY

「Don't cry」「Lonely」「ネガ チェイル チャラガ(私が一番)」「Hate you」「Ugly」これらの曲をすべてプロデュースした人物。そして、この5曲全てがランキング1位を獲得した。


Masta Wu

YGエンターテインメント(以下YG)所属のラッパー。アメリカニューヨークで暮らしていた頃からTEDDYとは幼馴染み。
当時、TEDDYは韓国人がほとんどいなかった中学校で、人種差別的な雰囲気を感じ、白人の学生と大喧嘩して停学になるなど、反抗児として過ごしていた。高校に進学した後、韓国人が多いLAに進学したが、ニューヨークとはスタイルも情緒も全く違う学生たちからは、宇宙人扱いされた。どこに行っても異邦人のような10代を過ごした。
このような状況で、TEDDYはヒップホップに出会い、苦しさを忘れ、その後グループ1TYMのメンバーになるデニーとLAで知り合い、本格的な音楽活動を始めた。そして二人が一緒に作業したデモテープが、知り合いの先輩の手に渡り、YGのオーナー、ヤン・ヒョンソク氏がその先輩と電話した際にそのBGMを聴き、彼の目に留まったのである。


ヤン・ヒョンソク

ヤン・ヒョンソクは、その先輩との電話中、電話から流れてくる音楽を聴き、渡米した。
当時、TEDDYとDANNYは、ヤン・ヒョンソクがデビューさせたジヌションを見て、「僕たちがやりたい音楽」だったとし、「心がひっくり返る思い」だったと表現した。
TEDDYはLAのショッピングモールで彼に偶然出会い、サインをお願いしようとしたものの、冷たそうな人に見えたため、声もかけられなかったことがあった。しかし、その一ヵ月後、TEDDYとDANNYはアメリカのとあるホテルの一室でヤン・ヒョンソクと会い、その場でオーディションを受け、一ヶ月後には韓国に渡り、デビューの準備にかかった。当時、二人はグループを結成すると言ったヤン・ヒョンソクの言葉に「実力のないメンバーとは一緒にやりたくない」と答えたそうだ。


1TYM

TEDDYとDANNYにソン・ベッキョンとオ・ジンファンが集まり結成したグループ。
ステージではタオルを振りながら、強いヒップホップミュージシャンというイメージを示した。そのため、当時は ヒップホップファンから「ヒップホップを利用したただのアイドルだ」といった批判も受けた。しかし、ヒップホップをパターン化し、誰でも簡単に覚えられる強烈な印象で繰り返されるリフレイン、時にはDJ DOCと混ざっても自然に見えるほどのステージでのパフォーマンスが、「母」「HOT トゥゴ」などのヒット曲を世に送り出し、彼らを大衆的なヒップホップグループとして作り上げた。
セカンドアルバムからは、TEDDYとソン・ベッキョンが作詞作曲し、サードアルバムでは全てTEDDYがアルバムのプロデュースをするなど、アルバム制作に関わった点は、注目に値する。所属ミュージシャンがアルバム制作のために作曲から演出まで範囲を広げたことが、ジヌションと1TYM、そしてその後のSE7ENやBIGBANGに続く、YG特有のシステムとなった。TEDDYが1TYM以降、自然とプロデューサーの座に付くことができたのは、このためだ。


ビースティ・ボーイズ (Beastie Boys)

生きた伝説といっても良いアメリカのラップグループ。
パンクバンドとしてスタートしたが、ラップ音楽として全世界的な成功を収めた。1980~90年代のラップ/ロックのクロスオーバーの流れの中心にあった。ビースティボーイズの曲に似たラップ曲「Nasty」とアイドルグループ「消防車」の「オジャパメン」をパンクでカバーした1TYMのサードアルバムは、ビースティボーイズに影響を受けたアルバ ム。
幼少期からヒップホップと共に、ロックバンドの音楽も好きだったTEDDYは、プロデューサーになったサードアルバムから、国内のトレンドとはかけ離れたオールドスクールサウンドのラップ/ロックアルバムを制作した。サウンドはシンプルな歌詞「Nasty」のように、精製されていないようなTEDDYの感性が、さらに主体的に表れた。“パクチーム長”のスタートだ。TEDDYは後々、「今サードアルバムのような音楽を制作しようとしてもできないと思う」と語っている。参考までに言うと、TEDDYはサードアルバムで元々セックスピストルズの「Anarchy in the U.K.」をカバーしようとしたものの、「オジャパメン」に方向転換したのだ。


SE7EN

YG所属ミュージシャン。
TEDDYがあこがれていたジヌションの「A-yo」で1TYM以外のミュージシャンの曲も作ることができるということを証明した。SE7ENの「情熱」をプロデュースし、本格的な活動を始めた。「A-yo」は、ジヌションのファンの立場で国内のトレンドとは関係なく、楽しいビートと面白い歌詞が中心に描かれている、誰もが楽しめるヒップホップのヒット曲となった。
しかし、「情熱」はSE7ENのトレンディーなイメージからか、アッシャーの「Yeah!」から本格化した当時のダンス音楽のトレンドに習って「A-yo」で見せたインパクトが感じられなかった。また、オ・ジンファンの入隊問題などで1TYMの活動が不透明になると、彼は不安感に打ちひしがれ、一時期は外出も困難になったとのことだ。結局、TEDDYはアメリカに渡り、文字通り「瞑想」の時間を過ごした。そしてまた曲を書き始めた。幼少期から興味のあった東洋哲学を音楽に使い、「冷たい声」を作った。SE7ENの「僕は知っている」では、ハイライトと言っても過言ではない強力なドラムの音は、このような過程を経て作られた。音楽に彼の人生がそのまま出ているのはこのためである。


DANNY

1TYM のメンバーであり、TEDDYの幼馴染み。
学生時代、TEDDYがかぶった帽子に興味を持ち、「ちょっと貸して」と話しかけたのがきっかけで親しくなった。DANNY、SE7EN、SOLと続くYGソロボーカルのトップに位置する男だ。当時、R&Bボーカルとは違い、美声を持ちながらも黒人音楽特有の色が濃く残る彼のボーカルと、TEDDYとの作業で 「One love」 「Make it last」「Without you」を誕生させた。
しかし、DANNYがTEDDYに与えた一番大きな影響は、彼の作業方式を確立させたということかもしれない。10代の頃、DANNYと共に生活していたTEDDYは、DANNYを一度だけプロデュースしている。以後SE7ENも米国でTEDDYとDANNYと一緒に住んで料理を担当し、3枚目、4枚目のアルバムを制作。そしてSOLや2NE1もやはり同じ所属事務所でTEDDYとコミュニケーションをとりながら音楽を作ったことで有名だ。プロデュースする歌手をよく知ることで良い音楽ができるというのが、彼の持論だ。


SOL

グループBIGBANGのボーカル。
また「僕だけを見て」「I need a girl」などで韓国最高のソロボーカリスト、パフォーマーになった一人だ。TEDDYがプロデュースした「僕だけを見て」は、本来ならばオーケストラが演奏する部分まで彼自身が作り、また音の代わりにリズムで曲の核心部分を作曲した。リズミカルなビートの上で、音程の高低ではなくリズムの速度さでメロディーを展開しながら、ヒップホップの構造をR&Bに溶かし出した。ヒップホップミュージシャンでありながら、ナイン・インチ・ネイルズの音楽に感銘を受け、時には涙を流すようなR&Bを作りもしたミュージシャンが、自身の音楽の世界を一つに合わせ始めたのである。
SOLを始め、オムジョンファの 「Disco」、BIGBANG&2NE1の 「ロリポップ」など、TEDDYの全盛期が始まった。


2NE1

TEDDYが、音楽だけでなく、ファッション、MVなどすべての部分をプロデュースしたグループ。
2枚目のミニアルバムでは、「Don't stop the music」以外のすべての曲を作詞作曲、そして編曲した。また、ラッパーのCLとボーカルのボムをメインに、キャラクターがはっきりとしている2NE1は、TEDDYの力を発揮するのにぴったりだった。「Fire」では、一つのビートをメロディー化させ、絶えず変奏し、「I don't care」はレゲエ的な要素を入れた。
また、2NE1の2枚目のミニアルバムでは、アコースティックサウンドが中心の「Lonley」をリリース。そして 2NE1との対話を通じて、男性でありながら女性の心理を描いたロックスタイルの曲「Ugly」を作った。2NE1に至っては、彼は自身の様々な音楽的な基盤を一つにまとめたり、またそれぞれ分かち合ったりしながら、自身のスタイルを作っていった。
また、自身がトレンドの中心だったヒップホップとエレクトロニカの結合から抜け出し、アコースティックサウンドとロックを新しい方向に提示することができるようになったのである。さらに、「世界の基準は美」という言葉通り、2NE1のビジュアル 面までもプロデュースしたのである。こうしていよいよ、一人のプロデューサーが誕生した。


フェリー

ジヌションと1TYM時代に彼らをプロデュースしたYG初のチーフプロデューサー。
TEDDYは幼少期にフェリーの後ろ姿を見て、プロデュースを学んだ。そして、TEDDYはSE7ENに、またBIGBANGと2NE1のメンバーに、自身のノウハウを伝えていった。
アメリカで韓国の音楽番組を見て、ヒップホップ音楽をしたがっていた少年は、韓国で肩越しに音楽を習い、プロデュースを学んだ。また苦悩の時を経て、10年前には考えられなかったような今までの曲とは方向性の異なる音楽を作った。そしていつか、後輩 のうち、彼のような道を歩む人が現れるかもしれない。良い曲を作ると言うことは、瞬間のひらめきだけで可能になることなのかもしれない。しかし、時にはプロデュースしたミュージシャンの人生さえも左右してしまう優れたプロデューサーというものは、時間と経験、そして学習と苦悩、これらが総体的に生み出した結果だと言える。
TEDDYは、音楽をプロデュースする、しかし、その前に自分自身をプロデュースしたのである。

記者 : カン・ミョンソク、 編集:ジャン・キョンジン