【映画レビュー】「ヘウォンの恋愛日記」ホン・サンス映画の楽しみ方

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※この記事には映画「ヘウォンの恋愛日記」の結末に関する内容が含まれています。
写真=映画製作チョンウォンサ

社稷壇と南漢山城で一夫一婦の意味を問う

ホン・サンスの14本目の長編映画「ヘウォンの恋愛日記」は私たちの予想通り、彼のこれまでの映画と似たようなテーマを扱っている。また女子大生で、また大学の教授だ。また秘密の関係で、お酒を飲む。そうだ。またホン・サンスの映画なのである。しかし、この限りなく繰り返される物語の中で、ホン・サンスは微妙な変奏を通じて映画感想の快楽をプレゼントする一方“モノガミー(Monogamy、一夫一婦)”の意味を真剣に問う。もちろん、その質問形式は、彼ならではの独特な語り方で行われる。

ホン・サンスはすべてのシーンに自身の指紋をつける、数少ない監督だ。適当に撮ったかのように見えるシーンにも、とても緻密な計算がされており、それがホン・サンスの個性に繋がる。私たちは指紋を確認し、隠された計算を解くことによって、誰の映画でもない、ホン・サンスの映画をより楽しむことができる。


ホン・サンス映画の楽しみ方その一“最初のシーンに注目せよ”

映画の最初のシーンで、監督は観客に“楽しみ方”を提案する。もちろんほとんどの商業映画は、習慣的な鑑賞方法で楽しめるように、習慣的なシーンで始まる。しかし、ホン・サンスの映画は違う。最初のシーンに注目すれば、その次のシーンをさらに楽しめるのである。

映画が始まるとへウォン(チョン・ウンチェ)は日記を書く。場所はとある食堂だ。よって映画は彼女が自分に起きたこと記録する人間で、映画が彼女の視点で進行することを物語っている。しかし母(キム・ジャオク)を待ちながら日記を書いていた彼女は、ほどなく眠ってしまう。

このようなパターンが映画を見るにあたってとても重要だ。日記と夢。または記録と想像。両者の間に現実がある。よって「ヘウォンの恋愛日記」は日記(記録)、現実、夢(想像)という3重の物語を持っている。よく見ると、日記と現実と夢は完全に重なったりはしないが、お互いに交差する。

夢の中で彼女はフランスの有名歌手で女優のジェーン・バーキンに出会う。ヘウォンは、最初は西村(ソチョン)の方向を尋ねるジェーン・バーキンに「よく分からない」と答える。実際に彼女は西村の方向をよく知らず、またジェーン・バーキンが誰なのかに気づかなかったのである。その後、彼女は自身がすれ違った平凡な外国人観光客がジェーン・バーキンであることに気づき、追いかける。ヘウォンはとても興奮し、ジェーン・バーキンに彼女と彼女の娘(シャルロット・ゲンズブール)が好きだと告白する。

ジェーン・バーキンはヘウォンを自分の娘より綺麗だと褒め、へウォンはそのジェーン・バーキンにあなたの方が美しいと賞賛する。ジェーン・バーキンは、もしパリに来ることがあったら連絡するようにと連絡先を書き渡す。ヘウォンは喜びを隠しきれない。私たちはこのシーンを通じてヘウォンがシャルロット・ゲンズブールのような女優になりたいということ、自分の美貌にある程度虚栄心を持っていることが分かる。しかしここまでは夢で、現実ではジェーン・バーキンの代わりに母が到着する。

ヘウォンの母は離婚してからカナダに移住し、新たな出発を試みる。離婚後へウォンは父と暮らし、母とは離れて過ごしていたようだ。カナダに旅立つ母にヘウォンはプーアル茶をプレゼントし、母は娘に「あなたの気の向くままに、自由に生きなさい」とアドバイスする。2人は西村(社稷洞:サジットン)のあちらこちらを回りながら時間を過ごす。

夢でジェーン・バーキンが行きたがっていた場所を、ヘウォンと母が見て回るのだ。ヘウォンは立ち入り禁止の社稷壇に入ったり、銅像が見下ろしているところで叫びながら、飛び回ったりもする。母に言われたように、自由に生きると決めた人の意志を見せるかのように。

その後2人は「社稷洞、あの店」というところに到着する。そこでヘウォンはある古本を手にし“名作”だということで買うかどうか迷う。その時、先ほど道で見た髭の男(リュ・ドクファン)がタバコを吸うために店の外に出てくる。彼はヘウォンに「お金は払いたい値段でいい」という。ヘウォンは「それだと、私のことがあまりも見えてしまうじゃないですか」と言いながら、本を買わずにその場を離れる。

そうだ。ヘウォンは自分を隠せると同時に、自分が主導権を握って誰かを呼び出し、好意を断ったり、どこかから離れることができる。そこでヘウォンと同じ学科の同級生たちは、彼女が何を考えているか分からないとしながら、彼女の二面性を指摘したりもする。

へウォンは母とお茶を飲んでから別れる。韓国映画のお茶を飲むシーンの中で、ここまで見慣れないシーンは見たことがないだろう。2人はガラスの瓶のような形のものに入れてあるお茶を飲むが、その空間が一体どういう形になっているのか、まったく分からない。2人はまるでヘウォンの夢でジェーン・バーキンと彼女がお互いを綺麗だと褒めあったように、大げさに泣きながら別れを惜しむ。そしてジェーン・バーキンのようにヘウォンの母は娘に「綺麗」だと連呼する。人生の予知としての夢、いや、夢が導くままに展開される現実。母に出会う前にヘウォンが見た夢は、米国の大学教授に出会う時も、現実とは重ならないものの、交差する。


ホン・サンス映画の楽しみ方その二“2人の男女の妙な関係に注目せよ”

へウォンが母と別れると直ぐ雨が降る。ヘウォンは急に寂しくなり“完全に別れたわけではない”ソンジュン(イ・ソンギュン)を呼び出す。ソンジュンはヘウォンが授業を受ける大学の教授であり、映画監督で、予想通り既婚者だ。ヘウォンはソンジュンにお酒が飲みたいとし、ソンジュンは「君とは何でも全部したい」とする。ソンジュンは普段、誰かに見られることを恐れ、ヘウォンと手も繋ぐことができないが、その瞬間だけはとても情熱的なキスを試みる。

しかし、自分の欲望にとても素直に見えるソンジュンの態度は直ぐ崩れてしまう。ヘウォンとソンジュンは居酒屋を探していたが適当なところが見つからず、1年前に訪れた居酒屋に行く。しかしその居酒屋ではソンジュンの教え子たちがお酒を飲んでいた。ソンジュンはその居酒屋の外でタバコを吸っていた学生たちが、ヘウォンと自分を見て2人の関係を疑うのではないかと心配し、怯え始める。

ソンジュンはヘウォンに、外で偶然出会ったことにし、何を聞かれても知らないふりをしろと念を押す。へウォンはそのようなソンジュンの態度とは逆に、あまり動揺しない。彼女はただお酒が飲みたくてソンジュンを呼び出したことにしてはいけないのかと聞き返す。

ソンジュンは学生とお酒を飲む間ずっと何かばれるのではないかと焦る。そのようなソンジュンに向かって学生たちが質問を続ける。「何故大学の教授になったのですか」「何故ヘウォンが好きなのですか」「ヘウォンがジェホンと付き合いながら他の男と二股をかけたことをご存知ですか」など、ソンジュンはどの質問にもはっきり答えられない。

この居酒屋のシーンは、カットのないとても長いロングテイクだが、緊張感が生きている。このシーンを通して、ヘウォンとの秘密の関係をばらすまいと必死なソンジュンに、居酒屋の女将の一言は決定的な一撃となる(この映画でソンジュンはどこにいても自分の姿を消そうとするが、一度ソンジュンを見た人はいつも彼に話かける)。そこに酔ったへウォンが先に行くと立ち上がりながら、先生を呼んだのは自分で、お酒をおごって欲しいとねだり、さっき偶然会ったと言ったのは嘘だと告白する。居酒屋の外でソンジュンが念押ししていたことを一気に壊してしまったのである。学生たちは驚いた目でソンジュンを見つめ、ソンジュンは戸惑う。

へウォンとソンジュンが再び出会いデートする場所は南漢山城(ナムハンサンソン)だ。ソンジュンは社稷洞でも以前下宿したことがあり、南漢山城付近にも住んだことがあるという。2人の関係も似ている。以前住んでいたところを再び訪れたように、2人は一緒に暮らしてはいないが、たびたびお互いを訪れる。以前住んでいたところを訪れるように。“完全に別れていない”状態なのである。

再び会ったへウォンにソンジュンは、「君は外国に住んだことがあるからか、他の人とは違う」と言う。これはつまり、妻のいる自分を理解しながら付き合える君は、周りの同年代とは違うという言葉に聞こえる。妙な逆転。ソンジュンは若干申し訳なさそうに言うが、返ってくる答えは冷たい。「先生は私のことを勘違いしているんです。私は、悪魔ですよ!」ここで傷つける人はソンジュンで、傷つく人がヘウォンだろうという通念は裏切られる。

南漢山城を見ながらソンジュンは、これだけ高い城を作った人たちは、すでにみんな死んだとしながら、虚しくないかと聞く。これにヘウォンはこの山城が残っていると答える。奇妙な質問と答えだ。南漢山城は仁祖(インジョ、朝鮮時代の王)が45日間清に抗戦していて、額から血が出るほど頭を打ちながら降伏したところだ。その時仁祖が守ろうとしていた価値が何であれ、それは跡形もなく消え、山城だけが残った。へウォンとソンジュンは仁祖が直接抗戦を指揮した守禦将台(スオジャンデ)を背景に座り、ベートーヴェン交響曲第7番第2楽章を聴く。ソンジュンは、2人で力を合わせれば問題ない、秘密さえ守れば問題ないとヘウォンに再び約束させようとする。


ホン・サンス映画の楽しみ方その三“場所が象徴することに注目せよ”

“モノガミー”はここで、滑稽な辛さとして守禦将台のように2人の背景に置かれている。敵から民を守っていた山城は、健康のための登山コースになっており、戦闘命令を下していた場所は登山客の休憩所となった。へウォンの鋭い言葉。「敵もいなくなり、城を作っていた人たちもいなくなったが、山城は残った」

なぜよりによってヘウォンとソンジュンが、もう一つの“不倫”カップルであるヨンジュ(イェ・ジウォン)とジュンシク(ユ・ジュンサン)が南漢山城で会うかを考えてみると、ヘウォンがなぜ立ち入り禁止の社稷壇に入ったのか、なぜあそこで叫びながら飛び回ったのか、なぜソンジュンが情熱的に変わり「君とは何でも全部したい」と言いながらヘウォンにキスをしたのかが理解できる。

社稷壇はどういうところなのか。そこは王が使用する祭壇だ。しかし今、王はいない。そして、誰も神を祀ることが国の繁栄と豊作に繋がると信じない。つまり社稷壇は昔の人たちが何を信じていたかを見せる場所だ。社稷壇の機能はなくなったが、その跡が残ることによって形だけが残った信念を証明するのである。

よってホン・サンスの映画は、登場人物の話だけを追ってはいけない。彼の映画を楽しむカギは“場所”の象徴性だ。例えば、ソンジュンがヘウォンにどこかに逃げたいとしながら「江原道(カンウォンド)。そこに僕の知り居合いの神父さんがいる」と言った時の場所が南漢山城という点は、とても喜劇的だ。逃げようとしているにもかかわらず、たかが江原道に行くと言う点は、ホン・サンスの前作「カンウォンドの恋」を思い出させるという点で、自己指示的だ。さらに不倫男が、少女を連れ逃亡し神父のところに行くとは、告解の秘跡でもする気なのか。

カメオのように少しだけ登場し、ソンジュンとヘウォンに「素敵な日ですね」と話しかける登山客(キ・ジュボン)の台詞は、場所の特性をよく活かした台詞だ。ソンジュンとへウォンもまた「素敵な日ですね」と答えるが、彼らにとって本当に素敵な日なのだろうか。そして南漢山城と守禦将台を“モノガミー”の隠喩とした時、最後にへウォンにだけ聞く「南漢山城の登山はよかったですか」はへウォンの結婚への決心に繋がっており、些細ながら意味深な質問となる。

ソンジュンとヘウォンはある日社稷洞にある店の前で、米国で大学教授をしているという男(キム・ウソン)に出会う。このシーンは、髭の男に出会ったシーンを若干ねじったものだ。微妙な変奏。髭の男の関心を、タバコの吸殻の火を足で踏みにじって消すように一気に遮断してしまったヘウォンは、男が米国で大学教授をしているとの事実に、興味を持つようになる。

髭の男が言った言葉を米国の大学教授も同じ様に言い(「お金は払いたい値段でいい」)、へウォンも同じ様に答える(「それだと、私のことがあまりも見えてしまうじゃないですか」)。しかし米国の大学教授は「それでは、自分のことがばれないように払えばいいじゃないですか」と返すことで、ヘウォンに話しかけることに成功する。

一緒にお茶をしながら米国の大学教授はヘウォンに青瓦台(韓国の大統領官邸)で貰った大統領の時計をプレゼントする。彼は自身を離婚した男だと紹介し、それについてどう思うかをヘウォンに聞く。へウォンは「結婚するということは、離婚できるという意味ではありませんか?」と淡々と答える。これに後押しされた米国の大学教授は「僕は愛人ではなく、結婚相手を探しています」としながら、さっき見たヘウォンが良さそうだとする。彼は自分の人生の抗体になってくれる、主観の強いヘウォンのような女が好きだと告白する。

この類のプロポーズがヘウォンは嫌いではない。彼は米国の大学教授で、大統領表彰を受けた人であり、マインドコントロールに長けている。ソンジュンと比べると米国の大学教授はヘウォンにとって遥かに良い条件の人だ。ソンジュンは妻と別れる気もなく、他の学生たちの目を恐れ退職願を書くが、いざ出すことはできず(ソンジョンの退職願は一種の社稷壇だ)、苦しい時はお酒を飲み顔に傷を負う人だ。

へウォンは7年も不倫をしている“親しいお姉さん”のヨンジュに会い、自分は近く結婚するかもしれないと話すことによって、心の中ではすでに米国の大学教授のプロポーズを受け入れたことを伺わせる(話す場所はやはり南漢山城だ)。この点が、これまでのホン・サンス映画のヒロインたちとヘウォンが違う点だ。彼女はソンジュンの図々しくも切々とした求愛に決して騙されたりはしないだろう。ソンジュンが経験する苦しみは、へウォンが彼の欲望を実現してくれないということから来る。

ソンジュンが苦しくてお酒を飲むように、ヨンジュジュの愛人で、既婚者のジュンシクはうつ病の薬を飲む。愉快に自分の俗物的な根性を表すジュンシクも、ヨンジュとの不安定な関係を思い浮かべると楽しんではいられないのである。それはヨンジュも一緒だ。急に憂鬱になった2人は何気なく旗を見つめる。ジュンシクは「旗はカッコイイ。あれは誰が作ったんだろう」と聞き、ヨンジュは「旗があるからこそ風が見えるの」と答える。

ジュンシクとヨンジュは急に再び明るくなる。2人は笑いながらお互いを抱きしめる。ジュンシクはどうすればそんなことを思い浮かぶのかと褒める。“モノガミー”に対するこの妙な隠喩。ロマンチックな愛の結末として結婚と幸せな家庭に対する神話が、“モノガミー”の外でのロマンチックな愛を隠すべきものにし、もし露になった場合、なびかれる旗のようにその主体は揺れる。その揺れは当事者にとってはとてつもない苦しみとなるが、見守る人には滑稽に見える。

へウォンと別れることにしたソンジュンが、守禦将台で夕暮れの空を見上げながら泣くシーンは、悲しいというよりは滑稽だ。さらにソンジュンが今は誰も持ち歩かなさそうな旧式ミニカセットプレイヤーで、ヘウォンと一緒に聴いていた音楽を自身の悲しみのバックミュージックとして利用する時は、爆笑せざるを得ない。ソンジュンの苦しみを唯一慰められるヘウォンは、それを見過ごすことができず、そばに座り時間が経てば平気になると慰める。ヘウォンは慰めるが、ソンジュンに決して何も約束しない。

ホン・サンスは社稷壇と南漢山城を行き来しながら“モノガミー”の意味を問う。彼は私たちがそれぞれの欲望のため、理想と現実の間で経験する問題を男女の間から探す。もしかすると“モノガミー”の外にある男女の恋愛こそが、冒険が無くなった時代の最後の冒険かもしれない。そのような意味でホン・サンスの映画はいつも些細だが重要な質問を私たちに問いかけており、彼の映画は決して個人的ではなく、とても社会的だ。

今回の映画でも改めて確認できるもう一つのことは、ホン・サンスはできるだけカットを避け、見慣れない感じさえも与えるズームを頻繁に使う。ヘウォンとヘウォンの母が会話をする時、2人を映していた画面はいきなり母、またはヘウォンにズームし、1人だけを映す。そうすることによってこれは映画だと喚起させる。暗い映画館で同じ夢を見ていた私たちは、それぞれ各個人として何度も起こされる。これはホン・サンス式“見慣れなくする”技法で、それは私たちにさらなる集中力を要求する。

最後にヘウォンが図書館で見る夢はどこまでが夢なのか。へウォンが夢で見たとする“素敵なおじさん”は誰なのか。ソンジュンなのか、米国の大学教授なのか、登山客なのか。例えば、ヘウォンが友達のユラムにソンジュンとの関係を告白するシーンは確かに夢だ。それでは2番目に南漢山城に行ったシーンは? 登山客に出会いマッコリを貰って飲んだことは夢か現実か。

この質問に対しそれぞれの答えを探してみると、さらに「ヘウォンの恋愛日記」を楽しむことができるだろう。しかし私たちが忘れてはならないことは、私たちが見ている「ヘウォンの恋愛日記」がもう一つの夢であり、その映画を見ている私たちが同時に夢を見ているという事実だ。そしてヘウォンの夢とヘウォンの現実とヘウォンの日記が「ヘウォンの恋愛日記」を構成するように、私たちの人生もまたそれと同じだということだ。

記者 : ハン・ジェヨン