釜山国際映画祭まであと1日!これさえ知っていればあなたも“BIFF廃人”

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写真=釜山国際映画祭

キーワードで見る釜山国際映画祭、観客の情熱に支えられアジアで成功するまで

釜山国際映画祭(BIFF)がアジア最高という話が出始めたのは、第4回か第5回の頃からだった。連日広場を埋め尽くす観客を海外からの客人たちは珍しがり、そのおかげで名声が海外へ拡大されているということを、有名監督からしばしば聞いた。

もちろん、社交辞令の部分もあった。しかし誰一人否認したり異議を唱えないほど、今では明確な事実として位置付けられている。釜山国際映画祭のイ・ヨングァン執行委員長は、最近アジア映画祭間の競争での自信をこのように話している。

「香港や東京、上海などは釜山の相手にならない。中国が成長していると言うが、これから20年は絶対釜山に追いつけない」

アジアではもう張り合う相手がないほど位置付けが固まったと強調する声は、余裕で溢れていた。第17回まで開催する間、飛躍的な成長を達成してきたプライドの表現でもあった。

写真=釜山国際映画祭
1996年、韓国で初めて「国際映画祭」時代を切り開いて以来、釜山は17回にわたってホン・サンス、キム・ギドク、パク・チャヌク、ポン・ジュノなど有名監督の成長を支えてきた。ホン・サンス監督の「豚が井戸に落ちた日」は第1回の上映作であったし、ベネチア国際映画祭の金獅子賞を受賞したキム・ギドク監督のデビュー作「鰐~ワニ~」は、第2回映画祭で紹介された作品だった。

それだけでなく、アジア映画の制作をサポートし、世界へ発信する窓口の役割も担当しながらアジア映画の中心として成長した。辺境のアジア映画を掘り出して世界の映画界に紹介し、人材を育ててきたのも釜山の役割だった。時間が経ち、このような努力が結実を結んでいるのだ。

第17回釜山映画祭の開幕を控え、いくつかのキーワードを通じて釜山映画祭の特徴と内外的なプレゼンス、そして現在の姿などを確かめてみよう。

「BIFF廃人たちよ、我らが祝日を楽しもう!」

情熱的な観客:「どの国にもこのような観客は存在しない。街中は若い観客が埋め尽くしており、彼らの質問はかなりのレベルだ」釜山を訪れた海外の監督たちから度々聞く話だ。2000年釜山を訪れたドイツの巨匠ヴィム・ヴェンダース監督は、質疑応答の最中に「この中で映画を専攻している人は手を上げてほしい」と頼んだことがある。観客の質問のレベルがなかなかのものだったためだ。

第13回映画祭で審査委員長として釜山を訪れたプランス女優のアンナ・カリーナは「観客が若すぎる。二十歳前後の若者たちが朝早くから客席を埋め尽くしている姿が特別だ」と話している。

写真=釜山国際映画祭
実は、みすぼらしい施設で国際映画祭というのは名だけ、実情は町内映画祭に近かった第1回釜山映画祭が注目を浴びた理由は、観客だった。18万にも及ぶ観客が南浦洞(ナンポドン)の上映館を埋め尽くしてチケット完売が続き、釜山は海外の映画界でも急浮上した。毎年の激しいチケット予約合戦は、釜山映画祭の伝統になった。今年も20万人の観客が上映館を埋める予定だ。彼らは釜山映画祭の最大の力でもある。

“BIFF廃人”と呼ばれる熱血な観客までできているほどだが、キム・ジソク首席プログラマーは映画祭が近づくとこのように煽動したりする。

「“BIFF廃人”の皆様。私達の祝日を迎え、一堂に会して狂ったように映画を観、映画への愛を語りましょう」

映画祭は映画の脱出口

アジア映画祭の競争:「上海が釜山に追いつけない理由は、検閲だ。香港も中国に返上されるので仕方がない。映画祭は映画の脱出口なのだが、検閲が存在する状態では発展することはできない。根深い中華思想も、中国の映画発展を阻害する要素だ」

イ・ヨングァン執行委員長が語る、中国が釜山に勝てない理由だ。彼は「東京映画祭の場合、輸入配給業者が組織委員として働いているので、自分たちが輸入したハリウッド映画を映画祭で上映しようとしがち」と付け加えた。

20年、30年以上の歴史を誇る競争映画祭たちが衰退し、その座を釜山が奪い取ることになった。これ以上映画では釜山に追いつけなくなると、アジア映画祭の競争はマーケットにシフトした。中国という大きな市場を抱える香港と隣国東京などは、映画のマーケットをさらに拡大するために注力しており、釜山はそれを追いかけている模様だ。

しかし、これも追いつけると楽観できる。ファンドを通じてアジア映画の制作をサポートしており、研修を通じて新しい映画人材を育成している。彼らは皆釜山映画祭の味方になるとの考え方だ。

写真=釜山国際映画祭

検閲と表現の自由に向けた戦いは進行形

表現の自由:中国が検閲のせいで発展できなかったならば、釜山は表現の自由の制約に屈せず立ち向かいながらアジアで成功できた。映画祭初期事前審議が必要だった時代、映画祭関係者たちは抜け道を工夫し、審議委員をお酒を飲ませて酔わせ、時間ぎりぎりになって作品を大量に提出する方法で避けて通った。第2回の映画祭では、検閲撤廃を叫ぶデモを、警察の鎮圧脅威から守るシーンもあった。今は審議を免除してもらっているが、検閲と表現の自由に向けた戦いは依然として現在進行形だ。

政治的な理由で監禁されているイランのジャファル・パナヒ監督を支持する声明を発表し、亡命中のモフセン・マフマルバフ監督の作品制作を援助しているのも、創作の自由の制限に立ち向かうという意志だ。韓国も李明博(イ・ミョンバク)政権に入って表現の自由が制限され、言論の自由も後退している現実から、釜山映画祭が目指している努力は大きな価値を持つと言える。

写真=釜山国際映画祭

大学の講義室で流していた自主制作ドキュメンタリーを映画館で上映

独立映画:「ムサン日記~白い犬(The Journals of Musan)」「豚の王(The King of Pigs)」「短い記憶(Re-encounter)」など、釜山で初披露された独立映画たちは韓国内外で大きく注目された。韓国独立映画の発展の裏には釜山映画祭が存在している。公開どころか、大学の講義室や講堂、社会団体などを転々としていた映画たちは、釜山映画祭のおかげで映画館でも観られるようになった。

映画祭初期、キム・ドンウォン監督の6月民主抗争を題材にした「The Six Day Fight in Myong Dong Cathedral」や、済州島四・三事件に照明を当てたチョ・ソンボン監督の「レッドハント(Red-Hunt)」、慰安婦女性たちの話を盛り込んだピョン・ヨンジュ監督の「ナヌムの家(The murmuring)」などは大きな話題を集めたりもした。これを元にいくつかの作品は映画館で公開される成果を出した。独立映画の制作支援も、釜山映画祭が先導し、他の映画祭が波及した。独立映画を支える、心強い力の役割を果たしているのだ。

監督と観客の距離を縮め、コミュニケーションを促すGVを初めて開始

GV(Guest Visit、観客との会話):今では普通になったが、映画上映直後に観客が監督や俳優と会話を交わすGVの始まりは、釜山映画祭だった。映画も観て、監督や俳優と会話するということに馴染みのなかった時期だったので、これは観客の好奇心を煽り、人々を映画館へ呼び寄せるきっかけとなった。現在も一番早く完売されるのはGVのある上映会になっているように、映画祭の魅力として働いている。

初期は真剣な会話が続いた結果、次の映画の上映時間までに話がまとまらず、外へ出て会話を続けるほど熱い雰囲気だった。初期の釜山映画祭GVは、当時プログラマーだったイ・ヨングァン現委員長が率いたが、今も重要なGVには彼が直接出向かうことにしている。監督と観客の距離を縮め、積極的なコミュニケーションを可能にする点で、映画祭の必須プログラムになっており、その形も多様化している。

女優でもあるク・ヘソン監督は、昨年自分の作品の初上映の他、予定していなかった残りの上映でもGVを開き、観客から大きく歓迎された。キム・ジソク首席プログラマーは「GVは釜山映画祭の誇りだ。今年は328回に及ぶGVが予定されており、昨年より13%も増加している。世界の映画祭でも、このようにGVが多い映画祭は見当たらない。“映画、映画人、観客の出会い”は、BIFFの最も重要な目標の一つ」と付け加えた。

写真=釜山国際映画祭

海外から認められているのは、釜山映画祭だけ

韓国映画祭の長兄:釜山映画祭が作られて以来、富川(プチョン)・全州(チョンジュ)・堤川(チェチョン)などの様々な映画祭が作られた。韓国映画祭ルネッサンスの端を発したのは、釜山だった。そのため、長兄としての役割も担当している。映画祭の国家支援などが議論されるとき最前線で頑張り、堤川・DMZ・女性・青少年映画祭など小さな映画祭をサポートするなど、釜山は韓国では映画祭の中の映画祭の役割をしている。

もちろん釜山映画祭の関係者たちは「お互いに競争もしているが、海外でのプレゼンスには大きな差がある」と話した。海外から認められているのは、釜山だけだということだ。彼は「他の映画祭は数年に1回ずつ委員長が代わるなど認められておらず認知度も低いが、釜山はこれまで17年間培ってきた人脈が手堅く、韓国映画の代表として認識されている」と付け加えた。

記者 : ソン・ハフン