イ・ビョンホン、T-ARA…“流行”となった芸能人の自筆手紙、形式より重要なのは“心”

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写真=イ・ビョンホン

【主張】T-ARAの自筆謝罪文に対する反応が教える疎通の意味

ここまで来ると、もはや流行と言ってもいいだろう。先日イ・ミンジョンとの交際を自筆の手紙で認めたイ・ビョンホンに続き、アイドルグループT-ARAが“ファヨンいじめ説”を公式謝罪した。謝罪の形式は記者会見や公式報道資料ではなく、“自筆謝罪文”の公開だった。これに先立ちT-ARAの所属事務所であるコアコンテンツメディアのキム・グァンス代表は、ファヨンとの契約解除に関して自筆の手紙で公式謝罪した。

この他にも、映画「リターン・トゥ・ベース:リターン・トゥー・ベース」のPRのため、所属事務所が軍服務中の主演RAIN(ピ、本名:チョン・ジフン)の自筆手紙を公開したことがあり、多くの芸能人がファンクラブとの交流会や公式イベントで自筆手紙で気持ちを伝えることが頻繁に行われるようになった。

それでは、芸能人は何故、このように自筆の手紙にこだわるのか? 元々手紙書きの達人だったのだろうか? それともハン・ソクボン(朝鮮時代最高の達筆)顔負けの達筆なのだろうか? もちろん、そんなはずはない。(彼らの趣味が手紙を書くことではないということに筆者の全財産を賭けてもいい。)

自筆の手紙まで公開したが…何故T-ARAはまだバッシングされているのか

マスコミと大衆をあまりにも意識し過ぎた、自筆手紙の内容を見てみると、これらの手紙を書く目的も簡単に分かる。RAINの自筆手紙は映画のPRのためであることが明らかなので、論外にしよう。キム・グァンス代表とイ・ビョンホン、そしてT-ARAの自筆手紙には一つの共通点がある。彼らに向けられた大衆の視線だ。

キム・グァンス代表とグループT-ARAは、ファヨン事件が話題になり、ネットユーザーからバッシングされた。彼らが何を言っても大衆がそれを信じない状況になっていたこと。イ・ビョンホンもまた、異性問題、特に女芸能人とのスキャンダルにおいては良くないイメージを持っている。イ・ミンジョンとの交際説が出始めた当時も、何回か否認したこともある。

このような状況なので、彼らは、伝えようとするメッセージの“本心”を強調することを第一目標にするしかない。決して軽はずみで明かした内容ではなく、伝えようとするメッセージが本心であることを強調するために、自筆手紙という“形式”を取ったのである。

写真=T-ARAの自筆の手紙(左)、イ・ビョンホンの自筆手紙(右)、(C)コアコンテンツメディア、BHエンターテインメント
最近のようにインターネットが発達した時代で、郵便で手紙をやり取りするケースは稀だ。さらに、宛先もない、不特定多数を対象に手紙を書くことはほとんどないと言っても良いだろう。

しかし、紙にペンを使って書いた手紙は、何故だか人の本心を表しているようで、ある程度、感情的なアクセスを容易にする側面がある。交感と共感といコードにおいても自筆手紙の方が、ただネット掲示板やSNSに書き込むよりは遥かに効果があると言えよう。

しかし、キム・グァンス代表に続き、最近T-ARAが公式謝罪文の代わりに発表した自筆手紙は、あまり効果を見込めないようだ。「何故一ヶ月も経ってから謝罪をするのか」という批判と「これは謝罪ではなく言い訳だ」という意見が支配的だ。更に9月に予定されたカムバックを前に発表した意図的な謝罪文だという点も、自筆手紙の効果を妨げる要素だ。

T-ARAの自筆手紙公開で、世論の好転を期待したキム・グァンス代表としては、このような副作用を理解し辛いかもしれない。しかし、理由は簡単だ。疎通において重要なのは“形式”より“心”であるためだ。

心のこもったメッセージ、伝えるべき“対象”をが間違えている

マスメディアを勉強する人の間で有名な言葉がある。マーシャルマックルーハンの「メディアはメッセージである」という言葉だ。この言葉の中には、誰がどのような目的で文を書いても、その人が選択した媒体(メディア)の含意から逃れられないという意味が込められている。心を伝える行為、意味を伝えようとする行為すべてが、“何か”によって規定される可能性があるという意味でもある。

ここで重要なのは、同じメッセージを込めていても、動画や写真そしてSNSで、自筆手紙の形を変えれば、それを受け入れる立場からは違う感覚、違う意味で受け入れる恐れがあるということだ。

写真=T-ARA(C)コアコンテンツメディア
そういった意味でT-ARAの公開謝罪が自筆の手紙という形式を取ったのは、それなりに賢明な選択のように思えるかもしれない。しかし、残念ながら、彼らは形式だけに集中するあまり、他の重要な事実を見逃してしまった。それはメッセージを送る対象だ。

彼らは自筆の手紙に“謝罪”という心を込めた。しかし彼らの謝罪が向けられるべき対象は、人々ではなくファヨンだ。ファヨンに向けられるべきメッセージを人々に送っていては、誰もそのメッセージを本物に受け止めないだろう。これがただ“見せるための謝罪”と受け入れるしかない理由だ。

筆者はT-ARA騒動をめぐる実体的真実にアクセスできない限界がある。そのため、それを評価することは出来ない。しかし、一つははっきり言える。「メディアがメッセージである」という言葉は今でも有効だが、メディアを選択できる状況ではメッセージも操作できるということも事実だ。

疎通の時代には結局“心がメッセージ”なのではないだろうか。カムバックと関係なく、本当に彼らが人々ではなくファヨンに謝罪したいと思っているのであれば、あえて自筆の手紙を公開しなくとも、彼らの心は伝わるだろう。それなので、その本心が伝わるまでは、カムバックへの焦りは暫く置いておいてはどうだろうか。

記者 : パク・チャンウ、写真 : イ・ジョンミン