「火車」 ― 先入観を打ち破ったキム・ミニの再発見

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結婚を前に、夫の親に挨拶するため安東(アンドン)に向かう車の中、ソニョン(キム・ミニ)は白のワンピースを着て、しとやかに見せるためかなり気を遣っているようだ。白い服に何かつけてしまうかも知れないと思い食事もできなかったというソニョンが心配なムノ(イ・ソンギュン)は、彼女のためにサービスエリアに立ち寄り、飲み物を買うために雨の中を走っていったが、それが彼女の最後の幸せであり、不幸の始まりだった。

ソニョンは急に姿を隠し、ムノは狂ったように彼女を探し歩いたが、彼女が住んでいた部屋にも、会社にもその姿を見つけることはできなかった。すべてが偽物だった。カン・ソニョンという名前から年齢、住民登録番号まで彼女のものは何もなかった。急に襲ってくる虚しさにムノは、「僕が知っていたカン・ソニョンは誰だ」と叫ぶしかない。

イ・ソンギュン、キム・ミニ、チョ・ソンハ主演の映画「火車」(ピョン・ヨンジュ監督、制作会社:ポイム制作)は、一本の電話で姿を消したフィアンセ、ソニョンと彼女を探す男ムノ、元刑事チョングン(チョ・ソンハ)が、彼女のすべては偽物だったことを知ったことにより、衝撃的な真実が明かされていくストーリーだ。映画は、最初からソニョンがすべての問題のカギを握っていることを明かしてから始まる。ミステリー映画で、犯人をまず明かしてから始めるとは、これこそミステリーな状況である。

しかし、チョングンが明かしていくソニョンの過去は息が詰まるほど怖いものだった。ひたすら出てくる社会の病弊が映画を見る117分の間、ずっと衝撃の渦に陥れるようだった。信用不良、個人破産、私債、個人世帯、無関心など現在の韓国が抱えている現実がそのままソニョンに映されていた。

血色が悪く、やせ細ったキム・ミニは、「火車」でのソニョンそのものだった。何も考えていないようなぼーっとした眼差しに怪奇さを感じたのは初めてだった。これまで、キム・ミニをただスタイリッシュなモデル出身の俳優だと思っていた観客を見事に裏切ったのだ。

ソニョンの過去はかわいそうで、みすぼらしい。私債業者に頬が切れるほど叩かれる姿は、自ずと哀れみを感じさせる。

そんなソニョンの目に殺気を帯び、ペンションのシーンでは彼女の悪魔のような本性が絶頂に達した。血だらけになって浴室から飛び出した細い体は恐怖に震え、やがて狂気に変わる。ペンションの中のキム・ミニはいなくなり、ソニョンが冷たい微笑みを浮かべた瞬間だ。


「火車」にはストレートな殺人シーンは出てこない。スリラー映画を追求する映画で残虐な殺人シーンがないというのは、泡のないビールと同じようなものだ。しかし、残虐な眼差しが泡の役割をしていた。人をメッタ切りするシーンより、キム・ミニの眼差しがより大きな恐怖を与えるかもしれない。

イ・ソンギュン、チョ・ソンハには悪いが、「火車」は最も少ない比重で最も大きな影響力を発揮したキム・ミニのための映画だった。もちろん、イ・ソンギュンとチョ・ソンハの繊細な表現が続く映画の恐怖の中で、安定感を与えていた。

ムノは愛したソニョンの真実を否定し、苦しむ男の心境をうまく表現した。そして、チョングンは単なる無職から刑事本能を取り戻し、事件の糸口を紐解く決定的な媒体としてストーリーを引っ張っていた。

映画が後半に進み、事件のミステリーが明かされるほど、心はますます重くなる。消えたソニョンを見つけられず、絶望に陥ったムノが焼酎を飲むとき、彼の友達は「人がいなくなったのに、誰も知らないのか?ありえることなのか?本当に怖い世の中だ」と世間を嘆く台詞が心を打つ。

また、ソニョンはムノに自分が犯した殺人について「私の何が悪いの?」と聞き返す。続いて「私はゴミだよ。そのとき、私には誰もいなかった。私はただ、幸せになりたかった」と静かにつぶやいた。彼女は素朴な幸せを探す小さな蝶だった。大きな欲はなかった。

映画「火車」は宮部みゆきの小説「火車」を原作として、「密愛」「バレー教習所」を演出したピョン・ヨンジュ監督の7年ぶりとなる復帰作だ。韓国で3月8日に公開される。

記者 : チョ・ジヨン