「王になった男」が物語ってくれる本当の王の資格

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写真=CJエンターテインメント

他人を理解する偽王

似た題材の映画がほぼ同時期に登場することは、しばしばあることだ。巨大な小惑星が地球に落ちてくる危機を防がなければならない「アルマゲドン」と「ディープ・インパクト」、音楽で人生の第2幕を開ける「Bravo My Life」と「楽しき人生」がその例だ。

最近「私は王である!」「王になった男」も“王子と乞食”のテーマを朝鮮バージョンに変えた作品だ。身分の低いものが本当の王に代わって、王の役割をするという設定だ。世宗(セジョン)大王と光海君の代わりに、身分の低いものが王の役割をすることを見ながらも気分が悪くならない理由は、本当の王より彼らが国民の心を正確に読んでいるためだ。

光海君(イ・ビョンホン)が最初に登場するときのシークエンス(物語上の繋がりがある一連の断片)を思い出してみよう。それこそ恐怖政治そのものだ。光海君は誰かが自身を毒殺するかもしれないという恐怖から狂気まで見せる。女官は宮底にぺたっとうつ伏せになってまともに息もできず、ぶるぶる震える。殺害されることを恐れ、いつも誰かを疑わなければならない光海君の姿だ。

だが、ハソンが光海君の役割をするときはどうだろうか。本当の王である光海君は、自身だけにフォーカスを当て、民の面倒をみてあげる優しい王ではない。だが偽王のハソンは違う。フォーカスを自身ではなく、民に当てている。

自身が腹いっぱいにご飯を食べれば女官が食べるご飯がその分足りなくなるという話を聞いては、女官が分けて食べれるようにご飯とおかずを残すハソンの姿、貪官汚吏(不正を行い、私利私欲を貪り、私腹を肥やす役人)があらゆる収奪で自分の利益だけに貪ることを見て怒る姿は、確かに本当の王、光海の姿ではない。

本当の王、光海は誰かが自身を殺すかもしれないといつも自分のことだけを考えている人物で、他人を考える余裕がない。だが、偽の王、ハソンは違う。身分の低い人の喜怒哀楽を宮殿の誰よりもよく知っているため、“他人”を配慮し、“他人”の痛みに怒ることができる。


歴史人物である光海君の本当の顔は?

「王になった男」でのハソンは、歴史人物である光海君の実際の姿が反映されている人物なのだろうか。多くの歴史学者は、光海君が仁祖反正(光海君を廃し、仁祖を即位させたクーデター)がなかったら、後金(清国)に対する実用主義外交路線を選び、大同法(国に捧げる特産物を米に統一する法律)の推進に成功したと予測する。ハン・ミョンギ教授がその代表的な例だ。彼は、光海君を卓越した外交的手腕を持つ君主と見る。

だが、ハン教授とは正反対の見解を持っている歴史学者もいる。オ・ハンニョン教授は、歴史の中の光海君は大同法に賛成したわけではなく、逆に大同法の導入を躊躇した王であり、無理な土木工事の強行で朝鮮王朝から民心が離れるようにした王だと見る。光海君に対する両極端の見解である。

もし、ハン教授とオ教授が「王になった男」を見たとすれば、光海君を肯定的に解釈する立場のハン教授は、ハソンの善正を光海君の本当の姿だと思うだろう。明のために1万人を越える朝鮮の軍事を派兵することを主張する大臣らに大きく怒るハソンの姿が、歴史の中で暴君だと罵倒された光海君の本当に顔だと見る可能性が高い。

だが、光海君を否定的に評価するオ教授なら、ハソンが偽王になる前の光海君、そして宮殿のすべての人を戦々恐々とさせたのが光海君の本当に姿だと思ったのだろう。民衆の痛みを読むどころか、朝鮮の“失われた15年”の張本人として見たに違いない。


人々が希望する指導者の姿

今後タイムマシンが発明され、今の歴史学者が朝鮮時代にタイムスリップでもしない限り、光海君を見る二つの見解のうち、どちらが正しいかを判断することはできない。光海君が朝鮮の失われた15年を招いた無能な王であれ、実利外交を追求した王であれ、私たちが朝鮮時代に行って直接確認しない限り、正確な光海君の顔を知ることはできない。

それにもかかわらず、一つだけ確実なことがある。「王になった男」の中のハソンが本当の光海君と似ているのかどうかが重要なわけではなく、ハソンというキャラクターが今人々が追求する“イデア”、つまり指導者の“理想の姿”を反映しているということが重要だ。

党利党略ばかり追求する臣下に向かって第一に国民を考え、国民の立場からよき統治をしようと苦労したり、または大同法をよく理解するため徹夜までしながら勉強するハソンの姿は、単なる歴史人物である光海君の本当の姿を復元するファクションの想像力に止まらない。

貪官汚吏には、迷わず怒りをぶつけるし、幼い女官の死には本当に胸を痛める。明との義理より重要なのは、飢えた朝鮮の民であることをよく知っている偽王、ハソンは明らかに今の大衆が望む指導者の真の姿だ。「王になった男」は、ファクション時代劇というジャンルを借りて私たちが本当に望む理想の指導者の姿をもう一度考えさせる映画だ。

また、「王になった男」は本当の王でなくても王の資質を持っている人であれば、ハソンのような身分の低いものでもよき政治をすることができる、つまり“ポジションが人を作る”ということを物語ってくれる映画である。

本当に国民を大事にするという指導者の資格を持っているハソンは、王族ではないが王として民を統治する資格があると「王になった男」は物語ってくれる。今、指導者になれる資格がある、国民の声に答えられる人は果たして誰なのかを考えさせる映画が、「王になった男」だ。

記者 : パク・ジョンファン