【スターコラム】ペク・アヨン、子どもの頃の私を紹介します! ― Vol.1

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今年の初夏、魅力的な音色の持ち主ペク・アヨンが歌謡界にカムバックした。すでに2ndアルバムだ。昨年9月、甘くほろ苦いバラード「遅い歌」でデビューし人気を集めた彼女は、可愛くハツラツとした新曲「A Good Girl」でイメージチェンジに成功した。約9ヶ月間、ほぼ全ての時間を練習と音楽レッスンに専念したペク・アヨンが、NAVER読者の皆さんを、彼女の子供の頃の思い出に招待する。4歳の時に家族の前で「南行きの列車」を歌い、歌手としての可能性を見せた少女の、歌手への挑戦記と言えるだろう。世間に公開されていないペク・アヨンの赤ちゃんの頃から学生時代までのプライベート写真を見ることも楽しいのではないだろうか。第2部では「K-POPスター」三銃士の残りの2人のメンバーであり、同僚でライバルのパク・ジミン、イ・ハイとの縁について紹介する予定である。読者の皆さんの多くの声援と関心をお願いしたい。/編集者

NAVER スターコラム:ペク・アヨン

# 赤ちゃんのペク・アヨン、一度泣き出すとアパート全体に響き渡った

こんにちは!いつも応援してくださって、ありがとうございます^^新曲もよろしくお願いします~~

私は祖母と祖父、母、父、そして私と妹の3代が一緒に暮らす大家族でしたが、暫くの間核家族になり、そして今はまた大家族になりました。祖父は亡くなりました。子どもの頃なので、良く覚えてはいませんが、初孫だったので祖父にとても可愛がられていたようです。

6歳の時に幼稚園に通いましたが、その時にピアノを初めて習いました。ピアノのレッスンの時にチェックボックスが書いてあるカードをくれますよね?10回弾くと1個ずつ塗っていくというものでしたが、全部埋めていたことを覚えています。実は、もっと小さかった頃の話は、両親から話を聞いても思い出せませんが、ピアノを弾いていた6歳の記憶は未だ鮮明に覚えています。

母によると4歳の時に「南行きの列車」を全部覚えたそうです。子どもの頃は一度泣き出すとアパート全体に響き渡るほどで、祖母は歌をさせなければと言っていたそうです。本格的に音楽を始めたのは小学校4年生の時で、童謡大会に教会の知り合いのお姉さんと出場しました。大会前日に準備したにも関わらず、3位になりました。その時に両親が私の才能を認めてくれて声楽を習い始めました。

# 変声期の頃に声帯ポリープ、芸術専門中学校に進学できず

教会の先生が国立オペラ合唱団に所属していて、その方に声楽を教わりました。芸術専門中学校へ行くための準備をしていた時、女子は余り目立ちませんが変声期が訪れて、練習のし過ぎで声帯にポリープができました。そのため、何もできず休むことになり、芸術専門中学校に行く計画も頓挫しました。

1年間何もできずにいましたが、偶然にも実用音楽ボーカルの存在を知りました。実用音楽は、私がしたいように表現しても大丈夫でした。正解がありません。それがとても不思議でした。その時から実用音楽について習い、歌謡についてたくさんのことを学びました。

芸術専門中学校を諦め、文系に進学しました。女子中学校出身です。正直その当時は男女共学の学校に通いたいとも思いましたが、いざ通ってみると女子中学校が楽しかったです。体育の時間は友だち同士で自由にジャージに着替えることもでき、だからこそ楽しく、女子同士でできる話が多いじゃないですか。そういったことが楽しかったです。

その時も実用音楽の塾に通っていました。塾は中学校3年の時から通い、その前も教会で地道に習いました。教会では合唱団にも所属し、学校の学園祭に出演して受賞したりもしました。

# イタズラな女子高生時代、本当に最高です

私は中学も高校も女子校に通いました。女子高は本当に“最高”です。エイプリルフールの時も絶対何かはしました。男の先生たちにイタズラをすることが本当に楽しかったです(笑) 特に私のクラスは音楽と美術専攻の人が集まっているせいか、2年連続同じクラスでした。なので、何をするにも団結しました。

若い男の先生は私たちがイタズラをすると知っているので、先生なりのノウハウで対応していましたが、年配の先生たちはよく騙されていました。どういうイタズラをしたかと言うと、黒板の上にジャージのズボンをのせておいて先生が入ってくると「先生、ズボン下ろしてください」と言います。そうすると普通先生たちは慌てますよね。あとは制服を逆に着て席についていたりだとか、そんなイタズラをしました。

高校生の時に本当にたくさんのオーディションを受けました。いざ高校3年生になると、大学進学について何も知りませんでした。オーディションは次々と落ち、大学進学の準備は友達がしているので私も受験の準備を始めました。短い時間で受験勉強をしながら泣いたりもして、先生に怒られるときもありました。私は高音が苦手だったからです。

耳が痛い、聞きたくないと言われる先生もいました。そういったことを経験してから更に練習するようになり、塾では1人だけ、大学に合格しました。塾と学校では私を自慢に思っています。今も受験のときの先生に歌を教えてもらっています。私の声をもっとも良く知っている先生なので、その先生に教わるのがいいと思いました。

私は子どもの頃から歌手が夢で、もちろん途中変わったりもしました。音楽のジャンルの中でです。ミュージカル俳優にも、声楽家や教授にもなりたかったです。「K-POPスター」オーディションを、歌手になるための最後の挑戦だと思い、そしてここで受賞すれば歌手になろうと思いました。

今、アルバムまで出したので、両親が本当に誇りに思ってくれています。父は未だ私の歌を評価してくれます。あまり褒めてくれないタイプなんですが(笑) 指摘をたくさんします。なので父に褒めてもらうのが夢だと言うほどでした。デビュー後はたくさん褒めてもらっているほうです。実は私の前ではあまり口にしないのですが、家族同士でいる時はたくさん自慢したりするそうです。


# 妹も歌手の夢を叶えられますように^^

私の妹の夢はしょっちゅう変わっていました。子どもの頃は数学が得意で、建築設計士になりたいと言っていましたが、私が「K-POPスター」に出演するのを見て、姉のように歌手になりたいと思っているようです。妹が歌手になると言った時は、大変な点についてたくさん教えてあげました。オーディションに一度落ちてからは、今は塾に通いながら専門的に習っています。

姉として見る妹の実力は、正直まだまだ足りません。私は子どもの頃から専門的にトレーニングしてきましたが、妹は私のことを見て遅くスタートしたので、どうしても私の真似をする部分が多いです。徹底した準備もできていない状態で「K-POPスター2」に出演したので、そういう評価を受けたりもしましたが、幸い、色々と感じて学んだようです。

子どもの頃、いつも喧嘩をしていました。3歳離れていますが、3歳違いがたくさん喧嘩をするそうです。今は離れて暮らしているので、連絡をしないと「何で連絡しないの?何で電話しないの?」とすねたりもします。大きくなってからは、お互いに頼ったりしています。

# JYPで叶えた歌手としての夢

正直「K-POPスター」の前は、大手芸能事務所のオーディションをたくさん受けていました。オーディションを準備しながら、決勝直前までいくと果たして3社の中で私に連絡してくれる事務所が一つでもあるのだろうかと疑問でした。その時JYPから一番先に連絡が来て、快く契約をしました。

パク・ジニョンプロデューサーはよくレコーディング室を訪れては、私にアドバイスしてくれました。JYPの女の先輩たちはプロデューサーと呼んで、男の先輩たちは兄さんと呼んでいました。本当に面白いです。パク・ジニョンプロデューサーは放送での姿と一緒で、とても面白いです。

皆さんが求める可愛いらしいコンセプトでカムバックしましたので、1stアルバムよりも大きな関心と声援をお願いします。

文:ペク・アヨン

「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。

記者 : ペク・アヨン、編集 : ソン・ナムウォン局長(OSEN)、写真 : ペク・アヨン、JYP