「いとしのソヨン」ファンタジーにもかかわらず、共感を得られる理由

OhmyStar |


キャラクターたちの成長を見せるための適切な装置として“ユートピア”を反映

「いとしのソヨン」は確かに面白いドラマだが、ある面ではとても退屈なドラマでもある。ドラマを引っ張って行く大きな事件も、事故もなく、確執が徐々に解決される後半に差し掛かり、その退屈さはエスカレートしている。もちろん何も起こらないわけではない。女性詐欺師も登場し、違和感のある設定も見当たる。しかし、それは他のドラマに比べると欠点のうちにも入らないほどだ。

それでも「いとしのソヨン」は後半あたりから視聴率50%に向かい、いわゆる“国民的ドラマ”として位置づけられている。刺激的な設定より、些細なエピソードとキャラクター同士のやり取りで埋め尽くされているだけのこのドラマの人気の理由はどこにあるだろうか。

写真=KBS

「いとしのソヨン」での事件、事故は、人物の成長を見せるための道具

「いとしのソヨン」では、事件や事故が人物の成長を助ける道具として使われている。後半に差し掛かりチャ・ジソン(キム・ヘオク)の家出のきっかけになる人物として、ペ・ヨンテク(チョン・ノミン)が登場し、イ・ソヨンが弁護する人物も新しく登場した。

彼らの登場を突然だと思うかもしれないし、話を複雑にすると言う人もいるだろう。そのように相手の立場を考えさせるために動員される複数の装置は、時には違和感があるものの、有機的な関連性を感じてからは結局うなずくようになる。

「いとしのソヨン」には悪役がいない。ただ年齢を問わず未熟な、まだ成長中の人物だらけだ。このドラマは歳に比例し人格が成長するのではないということを洞察しており、そのため成熟した人格の若者、まだまだ子どものような年寄りなど、様々な人物像が描かれる。

だからと言ってキャラクターが全ての面で物足りなかったり“どこかおかしい”人たちなわけではない。特定の面ではしっかりした人かも知れないが、違う面では成長が必要な人、このドラマに共感できる点と言えば、そういう点ではないだろうか。我々自身を照らす鏡のように感じるかもしれないためだ。

しかし「いとしのソヨン」はただそこに留まらない。我々の姿を照らすところに留まらず、相手の立場と考え方までもその中に取り入れているのである。そのように、色々なことが照らされている中で、相手を通じて自身を見て、また自身を通じて相手が変化して行く絶妙な連結の輪を発見できる。ドラマに自然に溶け込んでいるそのような説得方式は「いとしのソヨン」を差別化する力だ。


未熟な人たちの成長記、ファンタジーに近いがありそうな話で共感を得る

「いとしのソヨン」は家族ドラマだろうか、それともロマンスドラマだろうか。それとも成長ドラマだろうか。あえて答えを探すのであれば、その全てを網羅していると言えよう。それでは「いとしのソヨン」は現実を上手く描いていると言えるだろうか。必ずしもそういうわけではない。なぜなら、登場人物がほぼファンタジーに近く描かれているためだ。

実際の状況と比べてみてはどうだろうか。このドラマの人物が持つ属性や劇的な変化の過程を見ると、多くの部分にファンタジーが混ざっていることが分かる。ドラマの後半に差し掛かり、ほぼ全ての人物が自身の過ちに気づき、相手の立場から考えられる人物になっていることは、十分劇的だと思われそうな状況だ。

実際に、何回かの相手の立場に立つ経験で、ドラマのように簡単に変わる人はそういない。いや、そもそも「いとしのソヨン」の登場人物たちは、我々が日常生活で頻繁に出会える人物ではないと言ったほうが正しいだろう。

周りの人々に寂しい思いをさせるが、お金に関しては寛大な義理の父、気難しく見えるが純粋な姑、姉のためならどんなことでも諦められる弟、離婚してからも一途な夫、そして娘の行動に心から反省し、180度変わる父、そこにクールな恋敵まで。その他にもイ・ソヨン、カン・ソンジェ、カン・ギボム等の人物が変化していく姿は、日進月歩そのものだ。

しかし、ただのファンタジーなら、視聴者がドラマを通じて感じるカタルシス(解放感)は、それほど大きくないだろう。「いとしのソヨン」は、各階層の視聴者から共感を引き出せるキャラクターをたくさん生産している。それはファンタジーに近い人物たちだが、現実でも全く不可能なわけではない、我々の“ユートピア”を描いているためだ。

我々がなりたい、ああ考えたい、会いたい、そしてたまには我々の回りで見つかったりもするキャラクターたちの集まり、それが「いとしのソヨン」のもっとも大きい魅力なのではないだろうか。

記者 : ハン・ギョンヒ