「追従の王」もしかすると、コメディを装った武侠映画?

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写真=ロッテエンターテインメント

発注元は絶対にごまをすらない……だから本当に現実的な映画

「追従の王」は、コメディ映画でありながらも武侠映画に似たところがある。それはまず、この物語が営業マンのドンシク(ソン・セビョク)の“成長ストーリー”という点だ。武術とは縁のなかった主人公が、武術の高段者を師匠にして武術の達人になっていく武侠映画のように、“融通”はまったく利かず、“空気”も全く読めない営業マンのドンシクが“営業の達人”になる設定がそれだ。

武術だけに師匠が必要なわけではない。抜群の営業マンに成長するためにも“師父”が必要だ。“ごますり”界のレジェンド、ヒョ・ゴス(ソン・ドンイル)とドンシクの関係は、師父の教えを弟子が習う“徒弟関係”だ。ドンシクが一人でいくら努力しても、ヒョ・ゴスの下で習わなくては、まったく持ち備えていない“融通”を利かせることもできないし、“空気”を読むこともできない。

食物連鎖によってその方向が変わるのが“ごますり”

映画「追従の王」で、ごますりが必要なのは“発注元”と“下請け”のどちらだろうか。答えは“下請け”だ。“下請け”は必要な契約を締結させるために、“発注元”の痒いところをかいたり、手のひらが擦れるほどごまをすらなければならない。マイホームショッピングのイ会長が間違っておならをしたとき、いきなりドンシクが前に出て自分がおならをしたと謝るが、これも“発注元”のイ会長の痒いところをかくというごますりの一つなのだ。

その反面、“発注元”は絶対に“下請け”にごまをすらない。“下請け”にごまをする理由がないからだ。ヒョ・ゴスは、ドンシクにはごまをすらない。ヒョ・ゴス自らが、ドンシクを教える師父であるためだ。反対に、いくらヒョ・ゴスだとしても、ごまをすらなければならないときがある。ヒョ・ゴスが受注する立場、“下請け”になるときはごまをするのだ。

自分が“発注元”だとしても、“下請け”の立場に立たされることになればごまをすらなければならない。もし、自分を永遠の“発注元”と錯覚して“下請け”の立場に降りるのを拒めば、彼は決して望むものを手に入れることができない。これは、ヒョ・ゴスのような“ごますりの高段者”でも同じことだ。

それでは“発注元”は“下請け”のごますりを、ただ享受して終わりなのだろうか。それは違う。弄ぶために“下請け”のごますりを利用することもある。ドンシクがイ会長の自宅でプレゼンテーション中、困難に直面したとき、イ会長が「すべて食っていくためのあがきではないのか」とドンシクをあざ笑うシーンは、“発注元”がごまをする相手を弄ぶこともできることを露呈するシニカルなシークエンスだ。

「追従の王」は、指紋が擦り落ちるほどごまをすらなければならないのは“下請け”だという事実を、コメディを装って辛辣にあらわにしている。社会の食物連鎖を的確に直視し、その食物連鎖の関係をごますりの世界を通じて写し出している。動物の世界で最強の捕食者には“天敵”がいないように、社会の最強者には“ごますり”が必要ない。

同時に「追従の王」は、ドンシクと彼の師父ヒョ・ゴス、二人の男のバディ物語だ。しかし、二人の周りに調味料が加えられながら、彼らのコメディは色あせていく。ドンシクにつきまとうヤミ金業者がふるう暴力は、十数年前によくあった“ヤクザ映画”の時代錯誤的なアレンジに見える。

ストーリーの豊かさを確保しようと取り入れた女性キャラクターは、コメディという物語の軸に“バラエティさ”こそ加えてたものの、このバラエティさが返って話の軸となる“コメディ”を揺るがす結果となった。

記者 : パク・ジョンファン