【CLOSE UP】ウォンビン ― 彼だけのアイデンティティーとアルティメータム

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※この記事は2010年の映画「アジョシ」上映当時のものです。

1足す1は2だ。そしてウォンビンはかっこいい。ウォンビンの主演映画「アジョシ」は、この真理を永遠に伝える“福音”だ。彼が演技じたテシクの体の傷は赤いタトゥーで、敵の腕をへし折るときに体が描く線は額縁にそのまま入れて飾りたいほど素早い。なぜテシクが隣の家の少女ソミ(キム・セロン)を命を懸けてまで救おうとしたのかを尋ねるならば、「アジョシ」は、ソミを探すテシクの、涙が溢れそうな硬い表情を画面いっぱいに見せるだろうし、人の頭がい骨が割れるシーンに背を向けるならば、小さな顔とスリムなウォンビンの体が、地獄のような世の中の真ん中で花のように咲いているだろう。
映画評論家たちに、俳優の容姿が映画にある程度の影響力を持つことなのかを悩ませるほど、ウォンビンは臓器売買、児童虐待、暴力が混ぜこぜになった映画「アジョシ」を“スタイリッシュ”という言葉が自然に浮かび上がるほどの娯楽映画に引き上げている。

ウォンビンが隣のおじさんでなければならなかった理由

しかし「アジョシ」が残酷な事実と快楽的なスタイルを同時に併せ持つのは、ウォンビンの顔が随時クローズアップされたためではない。「アジョシ」は観客が拒絶するほどの犯罪現場を赤裸々に見せている。しかしテシクだけは、少し現実離れしている。彼は警察官6名を倒して警察署を脱出する、国家が情報を管理している伝説の特殊要員だ。しかしながら彼はとても純粋な感情を持っている。ソミがテシクに、自身が一番大切にしているものだとしてプレゼントしたカードが「暗い騎士(Dark knight)」であるのは、とても興味深い。テシクは、臓器密売についての都市伝説が横行する暗い都市で悪を懲らしめ、子供を守るスーパーマンだ。テシクがソミを誘拐した犯人と戦うことは、対決というよりは世界に帰って来たスーパーマンが悪人を退治するのと同じだ。「アジョシ」のアクションが与えてくれる快感は、悪役たちをきれいに退治するテシクの爽快で圧倒的な暴力にある。

「隣のおじさん」がウォンビンでなければならなかった理由はここにある。残酷な現実でさえ、スーパーマンの非現実的な存在感を放つことができるのは、まさに今のウォンビンだけだった。他の人たちが刃物と角材を持って争う時、テシクはただの一度も浪費すること無く悪人を処理する。直線を描くテシクの武術が汚い世界から優雅な角を作る。この動作を可能にするためには、東南アジア3ヶ国の武術を混合して作ったという武術を習得するのと同時に、どんな動作でもこなすことができる体を作らなければならない。体型はできるだけスリムに、そして“猫のような敏捷性”をキープできるよう筋肉を付けなければならない。帽子をかぶって歩く彼の体が、とりわけスリムで丈夫に見えたのは、彼自身が想像する特殊要員としての体型作りに成功した証だろう。

世界の他の誰であってもする事ができない何か

ウォンビンは「アジョシ」で自身の外見を極大化させてはいない。その代わり、統制しようとした。ただ肉体的な訓練を意味するのではない。テシクがまた世界と交わらない憂鬱なスーパーマンの雰囲気を持つのは、ウォンビンがこの間統制し積み重ねてきたものの結果だと言えるだろう。彼は韓国で最も有名な人物のひとりだが、最も自分自身を表に出さない人だとも言える。彼に会うためには、1年に1度ほど公開される映画を観ることぐらいしかない。多くのスターが、アジア全域において韓流スターになるためのプロジェクトを稼動させ、多様なビジネスを展開させた時も、彼は動かなかった。その彼の方法が、一概に正しいとは言えない。しかしウォンビンは、自身の容姿を、私生活を、そして出演作品を統制し、誰もが本当の姿を確認するのが難しい男性になった。大衆は彼が演じる配役の向こう側にいるウォンビンの素顔を想像することはできない。赤裸々な現実で非現実的である分、かっこいいテシクの存在が正当性を得たことは、ウォンビンの非現実的な容姿とイメージが基盤になっているためだ。

KBS「秋の童話」で手に入れられない愛に苦しむ御曹司の役や、映画「母なる証明」の本性が分からない青年の役まで、ウォンビンはいつも単純に見えるほど明確な性格を持つキャラクターを演じてきた。人々に見られる自身の容貌を意識したり、自分の打算だけを取り計らおうとする姿は想像できない。彼が映画「マイ・ブラザー」で坊主頭にしたり、「母なる証明」でボサボサ頭で自身の顔を隠し、ぼんやりとした表情を浮かべることができたのは、容姿への自信を越え、自分の顔を意識しないがために可能だったことなのかもしれない。そして、彼がひとりの少女についての愛情を表現した瞬間、彼の顔は自身が今どのような打算も無くして感情を表現しているということを観客に納得させる。もしかしたら危険極まりないことなのかもしれないが、彼はその美しさが時には魅力を超えて善と受け入れられるようにする方法を知っている。少女に“おじさん”と呼ばれる33歳という年齢。覗き込むことができそうな透明な表情。そして、とうてい年齢を感じさせない青年のような顔。ウォンビンは「アジョシ」で自身が今の顔を作る過程で積み重ねてきたことを集約させるキャラクターに出会ったわけだ。「アジョシ」になる年齢、しかし相変わらず美しい容姿。ウォンビンは、世界中のどの俳優にもできない、自身だけが最も上手くできる何かを探し始めた。

記者 : カン・ミョンソク、編集:イ・ジヘ、翻訳:平川留里