【映画レビュー】東野圭吾原作「さまよう刃」正義とは何か?…未成年者犯罪に対する疑問を投げかける

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写真=エコフィルム、CJエンターテインメント
東野圭吾は、「火車」の宮部みゆきや「夜のピクニック」の恩田陸とともに日本の推理小説作家を代表する1人だ。日本ですでに11本の映画と27本のテレビドラマで映像化されているほど、彼の小説は大衆性と作品性を兼ね備えている。韓国でも「白夜行-白い闇の中を歩く-」と「容疑者X 天才数学者のアリバイ」が映画化された。

深刻な社会問題を多く取り上げてきた東野圭吾は「さまよう刃」に未成年者が犯した罪により娘を失った父親を登場させる。被害者の父親が自らの手で裁きを下そうと犯人を追い詰める展開を通じて、少年法を含む日本の司法制度の問題点を暴く。

「さまよう刃」は、すでに日本で益子昌一監督によって映画化されている。日本で制作された映画「さまよう刃」は、復讐に乗り出した父親の怒りと、彼を捕まえなければならない警察の苦悩、どちらも説得力ある形で見せられないまま、原作小説のストーリーにただ従うばかりだった。また、人物の描写でも、生気のない演技トーンを見せ、演出と演技両方でよい評価を得られなかった。

娘を失った父親と彼を追う刑事に焦点を絞って脚色

映画「ベストセラー」でデビューしたイ・ジョンホ監督は、2作目の映画「さまよう刃」を制作するにあたり、日本で映画化された作品とは異なる方向を選ぶ。監督は小説で匿名の情報提供を受けて訪れた家で、娘の死に関する動画を見るという設定と、最後の広場での対立する状況を除き、その他の部分はほぼ変更したと言ってもいいほど、脚色に力を注いだ。

脚色により、復讐に乗り出した父親に自首を勧めるペンションのオーナーの娘と新たな事件の被害女性の父親は省略された。映画は、必ず犯人を見つけ出して復讐すると決心した父親サンヒョン(チョン・ジェヨン)と被害者ではなく殺人事件の容疑者としてのサンヒョンを追う刑事オクグァン(イ・ソンミン)2人の構図に絞りこまれた。

「さまよう刃」は、被害女性の父親から、人(犯人)を殺した加害者へと変わる、サンヒョンの感情の変化を繊細に扱う。映画の冒頭に登場する雪原と、葉がすべて落ちた枝は、サンヒョンの心理状態を物語るシーンだ。ハンドヘルド(カメラまたは照明装置を手で持つこと)を駆使した撮影技法と荒涼とした画面のトーンもサンヒョンの心理を反映する手段として一役買っている。

「誰のための法律か、警察のしていることはなんなのか」と葛藤する刑事オクグァンと、新米刑事ヒョンス(ソ・ジュニョン)には、昨今の現実を批判する声が込められている。映画の中で刑事はやっと犯人を捕まえるが、強圧的な捜査をしたのではないかと追及され、弁護士を動員して様々な理由で量刑を減らす「有銭無罪、無銭有罪」の状況を迎える。彼らは、殺人を犯したのが未成年者という理由で大きな処罰を受けない世の中を見て、「罪に子どもと大人はない」と自嘲気味に話す。

未成年者犯罪に対する疑問…「法律は絶対的に正しいのか」

日本と同じく韓国でも未成年者による犯罪が増加している傾向だ。しかし、凶悪な罪を犯しても未成年者というだけで犯した罪の重さに見合わない判決が下される。特に、14歳未満の場合、刑法適用の対象ではなく「触法少年」という法律で守られ、特別な措置を受けない。彼らによる犯罪は日増しに大胆になり、凶暴になっているのが実情だ。

2004年密陽(ミリャン)で、13歳と14歳の女子中学生姉妹を40人の男子生徒が集団レイプした事件で、被害者の生徒は家出をしたほど、ひどい後遺症に苦しんだのに比べて、加害者である生徒のうち5人のみが「保護観察」処分を受け、残りの加害者は何事もなかったかのように日常に戻った。

このような現実を見て多くの人は憤りを隠せない。社会の現実を反映した映画は様々な角度から事件を見た。「ポエトリー アグネスの詩」は、加害者家族の視点から事件を観察し、「ハン・ゴンジュ」は被害者遺族の目の高さで世界を見る。そして「母なる復讐」は法の力を借りずに自ら復讐に乗り出した家族を見せ、憤りを爆発させた。

東野圭吾は、小説の中で父親の言葉を借りて「裁判所は犯罪者をきちんと裁いているのか? むしろ裁判所は犯罪者を救っている。罪を犯した人に更生の機会を与え、彼らに対し憎しみを持つ人々の目の届かないところに犯罪者を隠す。それを刑罰と言えるのか」と司法制度を批判した。被害者とその家族の傷については考慮せず、罪を犯した未成年者の将来を考えるよう要求するのは行き過ぎた理想だと指摘した。

映画「さまよう刃」は、脚色により小説の登場人物が大幅に省略されたため、様々な人物の心理を積み重ねて最後の広場のシーンで一気に爆発させるという劇的な状況を再現することはできなかった。また、被害者の父親については冷静な理性からあえて目を逸らし、熱い感情に訴えようとする面が強い。

しかし、映画は小説が投げかけた「法律は果たして絶対的に正しいものか」というテーマをうまく活かしていた。現実で正義だと信じていたものが揺れる光景を目撃している今、映画が投げかける正義に対する疑問が重くのしかかってくる。私たちが正義の刃だと信じているものは、本当に正しい方向を向いているのだろうか? 映画は観客に問う。

記者 : イ・ハクフ