「容疑者X」チョ・ジヌンの探求生活…相手を輝かせさらに輝く俳優

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映画「容疑者X 天才数学者のアリバイ」チョ・ジヌン、リュ・スンボムの眼差しに“すべてが終わった”

映画「容疑者X 天才数学者のアリバイ」を撮りながらもっとも気苦労したのは、俳優チョ・ジヌンではなかったかと思う。原作を映画化する過程で新しく作られた刑事ミンボム役が、容易なキャラクターではなかったからだ。すでに日本で「容疑者Xの献身」という小説が発売され、同名の映画が公開されて人気を集めている状況で、パン・ウンジン監督の「容疑者X 天才数学者のアリバイ」は比較されるしかない状況なのだ。

原作に登場する物理学者と主人公の友人を組み合わせたキャラクターが、ミンボムだった。映画界にも“コンバージェンス”(融合)ブームが巻起こっているのだろうか。チョ・ジヌンは大きな課題をかせられることになったのである。

「日本の原作は、以前映画チャンネルで観ました。淡白な感じで、どこかクールでした。シナリオを読んだとき、天才数学者の話?どこかで見た気がするのに、物理学者もおらず、友だちもいません。キャラクター自体が関係ないので、自分から理解しなければならないじゃないですか。殺人に関連している友人、ある女性を愛している友人の感情からもたらされる混乱をまとめるのが僕の仕事でした。

原作より、こちらのシナリオがさらに感性が加えられていると思いました。ミンボムは、映画のために質問を投げかける役柄だと思いました。撮影をしながら、自分もこの映画に説得されなければならないと思いましたが、頭では彼らの物語を理解していても、心を開くのは簡単ではなかったです。そこで、リュ・スンボムさんの演じたソクゴの眼差しを撮影中に見たら、もう役柄にハマっている目でした。『ああ、ゲームオーバーだ』と感じました」


完全な愛とは?「毎日が充実していればいい!」

「容疑者X 天才数学者のアリバイ」のキャラクター説明で、ミンボムは動物的な感覚を持つ刑事となっている。そのため、ソクゴのファソン(イ・ヨウォン)への愛を見守り、迷宮入りした事件の端緒をつかむ役柄なのだ。

しかし、振り返ってみるとミンボムも本当の愛に飢え、感応していた一人の人間だった。職業柄最後まで二人を追い立てるが、ソクゴのファソンに対する行動から新しい愛の姿を発見し、彼自身内面から大いに混乱を経験するからだ。ミンボムというキャラクターが、すでに一度の愛と一度の別れを経験した人物だという設定は、人物間の対比をさらに明確にしている。

結局「容疑者X 天才数学者のアリバイ」の重要なキーワードは、他でもない愛だった。この映画の初期タイトルが「完全な愛」だったことを思い出すといいだろう。愛というキーワードが、この映画の柱になっていることがわかる。

「ミンボムが経験した愛も、本物だっただろう。なのに別れた相手が偽物だというから怒るんですよ。自分の愛が偽物ではないと信じていたために、さらにソクゴの愛を疑うしかなかったと思います。それにソクゴは、自分の愛を証明しようとしますよね。映画でミンボムが『あいつはどうして自首しようとしないのかな』とこぼす部分が、そのままミンボムの心を代弁している台詞だと思います。ソクゴの愛が本物の愛であることを認めているんですね」

愛の話が出たので、俳優チョ・ジヌンに直球を投げてみた。映画でない、現実での愛。それは何だったのかと。チョ・ジヌンも恋をしており、配慮する姿で周りを羨ましがらせているからだ。

写真=CJエンターテインメント
「愛というものって、目に見えますか。毎日を充実させるしかないと思います。この前、知り合いの兄さんに長く付き合っている恋人がいたんですけど、僕が『結婚しないと』と言ったんです。そしたら彼、『今日やるべきことをうまく片付けて、毎日を充実して生きていると死ぬまで愛する人が隣にいてくれるはず』と言うんです。

誤解の余地はあると思いますが、その言葉が正解の可能性もあると思いました。愛というのが、『明日から好きになろう』として好きになるものではないじゃないですか。映画の中で、ソクゴが死のうと決心した瞬間、お隣がおすそ分けを持ってきます、それが何の意味を持つのかと思いがちですけれど、ソクゴにとっては死が生に変わる瞬間なんです。

ソクゴはストーカーみたいなイメージに見えるほどお隣の女性ファソンのために徹底的な計画を立てますが、これを“完全な愛”と思うこともできるんですよね。判断は観客に任せるべきだと思います。こういうことは焼酎でも一杯飲みながら話すべきですけれど(笑)」


演技の本質は変わらない「認知度によって心構えが変わることはない」

チョ・ジヌンもやはり、演劇界で基本を鍛え映画界に進出した実力の持ち主だ。大学に入学した1996年、釜山(プサン)のドンニョク釜山演劇製作所に所属され、たゆまず活動してきた。演技ではなく演出を勉強しながらも、俳優活動は続けてきた。金銭的な報酬は微々たるものだったが、それだけ熱心に作品を積み重ねてきたチョ・ジヌンだった。

「企画も演出も、すべて演技のためのツールでした。演劇の演出というものは、限られた空間でエネルギーを感じられるので、俳優として演出を経験してみるのはおすすめできると思います。作品の中に閉じ込められず、客観的な視線を持つことができるんです。

釜山で多角的に活動したのは、実は俳優の基礎も足りなかったからでもあります。うまい言い方に変えると、マルチプレイヤーになるんです。舞台芸術をやっているすべての人に相応の代価が払えないので自分でやりましたし、その過程で視野が広くなったと思います。

でも、映画をやれば何百万もの人々に会えるんです。多くの観客に披露するのも重要ですが、その多くの観客の中で、作品に意味を与えてくださる観客も重要なんですよね。演劇は作品の希少価値を感じながらやる作業で、映画は映画館での上映を目標にする作業なんです。

空間に対する価値の付与が違うので、どちらの方が重要だとは言えません。ミュージカルも、演劇も、ラジオの声も、演技の本質は変わらないというのが今の考えです。あえて区分したくはありません」

昨年から今年にかけ、チョ・ジヌンは明らかに勢いに乗っている。ドラマ「根の深い木~世宗(セジョン)大王の誓い~」、映画「パーフェクト・ゲーム」「悪いやつら」での彼の姿は、放送界と映画界が役者チョ・ジヌンの真の姿を見据え始めたことを証明する作品だった。

「身の置き所がないくらいです(笑) 現場の方々は、これで僕の名前を知り始めた程度です。急浮上、頭角という表現がおかしいと思います。急ではないつもりです。ようやく“映画をやる人”の匂いが少しし始めたところです。現場が好きで、人々と作業する瞬間が好きなんです。

認知度によって心構えが変わることはないと思います。申し訳ない気持ちの方が大きくなります。僕を支えてくださった方々に、どうにかして作品を通じてこちらからも助けたいんですが、やむを得ず断ることもあるんです。そのときの気持は『僕は何だってこれができないんだろう』という気もします。かといって、演技的に何でもやるわけにはいきませんし、守るべきところは守らないと」

今後もさらに色んなチョ・ジヌンの姿に出会える。映画「パパロッティ」「怒りの倫理学」が撮影を終えたばかりで、公開待ちの状態だ。このような時期であるからこそ、チョ・ジヌンは作業を振り返り見据える時間を持ちたいと思うという。間もなく一層深みがでてくる役者チョ・ジヌンを期待してもいいだろう。

記者 : イ・ジョンミン、イ・ソンピル、写真 : イ・ジョンミン