ADOR ミン・ヒジン、代表解任後初めて公の場に…HYBEとの訴訟費用は2億円?134分の講演で自身の信念明かす

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写真=ADOR
ミン・ヒジン前代表がHYBEやADORと対立する中、初めて公の場で心境を明かした。

27日午後、ソウル龍山(ヨンサン)区梨泰院(イテウォン)某所で「2024 HYUNDAI CARD DaVinci MOTEL」が開催された。

この日、講演者として出席したミン・ヒジンは、観客の熱い反応の中登場。彼女は「あまりにも私の味方のようだ。このように歓迎してくださるなんて」と感謝の挨拶を伝えた。

ミン・ヒジンは「この時間が私にとっても貴重だ。私はもともと何かを準備するスタイルではない。今日、私のスマートフォンから火が出るようだった」と話し始めた。続いて「すべての人が応援していると言ってくれて『準備はうまくいっているか』と聞かれた。今日、私の人生が終わるのかと思った。最期かのように連絡をくださった。この場を借りて、とても感謝していると伝えたい。全ての広告主の方々が、これまでたくさん応援してくださった。私が思うに、広告主という単語は情が無いように見えるが、私たちは大体広告主の方々とパートナーシップで結ばれている」とし「Bunniesの皆さんに何か差し上げたくて、自費で何かをしたかった。しかし、最終的に私の自費ではなくなった。誰かが私の財政があまり豊かではない状況を知って、協賛のようなものをしてくださった。その代表にも感謝している」と明かした。

また「私は今日、ここで暴露をしたりはしない。私は漠々としている性格だが、今日はK-POPについて話す場であるため、ドーパミンを期待している人は配信を切ったほうがいい」と話した。

ミン・ヒジンは、4月に行った記者会見に対する世間の反応に言及。「あの記者会見は、私の人生で最悪の状況の時、消してやりたい一番つらい時に行った。私には『ドーパミンになる』という言葉が理解できない。今回メディアインタビューを受けながら、記者の方が質問してくれたが、私は自分の言葉がミーム(Meme)になってしまったことにとても傷ついた。大変な思いで話して、私にとって切実な話なのに、笑われてミーム化されるのが受け入れられなかった。ラジオまで出演して家に帰って、当然すっきりしたが虚しさもあった」と振り返った。

普段、番組などで自身の顔が映ることを嫌ってきたミン・ヒジン。記者会見の後、むしろ顔を隠そうとするトラウマがなくなったと明かしながら、「洗っていない顔が前後左右から撮られた。終わってから『神様がトラウマを克服させようとしたんだ』と考えた。自分の姿があのように映ったことがとてもつらかったし、泣いている写真をやたら使われた」とし「何度かしか泣かなかったのに、泣きじゃくったかのように映っていて腹が立った。そして、私が悪口ばかり言う人のように見えたかもしれないが、誰かの前で悪口を言うスタイルではない。私がストレスを解消する方法が、仕方なく悪口を言うことだ」と説明した。

写真=Newsen DB
彼女はSMエンターテインメント在職時代、自身の可能性に目を付けてくれたイ・スマンについても語った。

ミン・ヒジンはデザイナーからプロデューサーという、独特な過程を経た。大学時代に続いて「落ちても大丈夫」という大胆で高慢な姿で、SMエンターテインメントの面接を受けた当時を思い出した。

彼女は、「当時はあまりにも荒れ地だった。会社にシステムというものが存在しなかった。特にグラフィック関連は部署がなかった。私も序盤の1~2年は『もう出ようかな? 辛いな』と悩んだ」とし「私に良い機会が数回訪れた。当時プロデューサーだったイ・スマンさんが『この子ちょっと賢いようだ』とおっしゃった。私が代理の時だったが、チーム長たちに『君たちはグラフィックを知らないのだから、代理だとしてもこの子の話を全て聞くように』とメールを送ってくださった。誰かが背中を押してくれるのは気分が良いことじゃないか。それをうけて、我慢してやってみようと思うようになった」と退社を諦めた瞬間を振り返った。

続けて「初めはグラフィックデザイナーとしてアルバムのデザインをしていたが、私に権限はなかった。例えば、写真を私の思い通りには撮れなかった。もらった写真だけでデザインをしなくてはならず、ジレンマがあった。『年次というものがあるから学ばないと』という思いで、初めから出しゃばってはいなかった」とし「他人が撮ってくれる写真をもらってグラフィックデザインをした。残念さがあって、スタイリストに『このようなスタイルで撮れるようにしてみよう』と言いたかった。その時も20代だったが、スタイリストが私の言葉を聞くだろうか。どこからか転がってきた子どもがそのように言ってきても、聞きたくないだろう」と付け加えた。

ミン・ヒジンは「当時はアイドルが雑誌社からとても冷酷に断られていた時期だった。とてつもない壁があった時代だ。今のように韓流というものはなく、蔑視されていた時代だった。H.O.T.に関心がなく、よく知らないまま会社に入り、スタイリストにディレクションしながら制作することができた時期が、少女時代の1stCDだった。ジャケットデザインはスタイリストと話しながらできたが、ミュージックビデオは権限がなかった。とっても悔しかった。見たら悔しくなるのでミュージックビデオは見なかった」と話した。

上司とのわだかまりの解決方法について、ミン・ヒジンは「上の人たちと仕事をするとき、解決方法はない。全員性格が違って、上司も全員違う。どのようなノウハウがあるのかなどを簡単に得ようと思うのか。この世には簡単に得られるものは1つもない。各自の場所で、それぞれの上司に対する把握をうまくしなければならない」と回答。また「『あいつをどう煽てればいいか』『あの人をどう説得したらいいか』など、自分だけのノウハウがなければならない。コミュニティに投稿しても意味がないし、悔しいと思ってはいけない。幼い時、私が何でもないときに私を引き取ってくれた場所で、私の試行錯誤を我慢してくれた会社。あのようなものを“学ぶ”と言うと思う。組織と社会を学んだ」と強調した。

自身がやりたいことをしたいという思いで、ADORというレーベルを作りたかったというミン・ヒジンは、6ヶ月間続いているHYBEとの葛藤に言及した。

ミン・ヒジンは「正直私の価値を換算してくれるお金も重要だが、それよりも大切なことが世の中にはとても多い」とし、自身の目的は会社を設立してお金を稼ぐことではなく、自身の人生をテストしてみることだと強調。特にこの日、HYBEとの訴訟過程で莫大な金額を支出したことも明かした。

彼女は「大概の人が耐え難いと思う。訴訟費用が今まで23億ウォン(約2億5000万円)かかった。ずっと意味のない訴訟をして対応し続けたら破産する構成だ。私はお金を集めるタイプではない。皆さんが思うほどお金持ちではないが、私が訴訟費用のために家を売らなければならない」と明かし「私は正直、本当に幸いだと思った。これのために家を持っていたんだなと思った」と説明した。

また「私も蹴り飛ばしたいが、お金がないと訴訟も対応もできない。夫と子がいないことに本当に感謝した。私に夫や子がいたら悩んだだろうが、私はひとりだ。3ヶ月で訴訟費用が数十億ずつ増えていくのに、一般の人が耐えられるだろうか。絶対にできない。『私が勝たなきゃ』と考えるようになった」と明かした。

続けて「このような対立をなくしたい。誰かが耐えられるまで耐えると、過程というものが生まれる。私のような人がいれば、のちにアドバイスをしてあげられる。お金がある人が勝てるという戦いにならないように。私が耐えられるところまで耐えてみる」と語った。

ミン・ヒジンは自身が会社を出ていくと言ったことはないと強調した。「4月からずっと殴られながら来た。急に私が会社簒奪をしたという。状況把握ができなかった。人生でこんなにも殴られることがあるんだなと思った。私は私が勝つと思っている。罪がないから。どれだけ嘘をついて膨らませても、最終的にはバレるという自然の摂理と法則がある」とし「私は必ずドキュメンタリーを撮るつもりだ。すべての過程を明らかにする」と意思を表明した。

このように訴訟をはじめ、HYBEと対立する姿に、NewJeansのメンバーはどう思っているのだろうか。先立って、メンバーたちは11日に緊急生放送を通じて、9月25日までにミン・ヒジンが代表として在職するADORに戻してほしいと訴えた。しかし、ADORはこれを拒否する内容の回答を伝えた。

これについてミン・ヒジンは「メンバーたちも悔しがっていると思う。一度も会社を出ていくと言ったことはない。親会社が嫌いなことはあっても、メンバーたちはADORを嫌う理由はない。少しずつ積み重なって、一度に爆発するかもしれない。ジャブを打たれ続けると擦り傷ができるが、急に殴られたらそっちの方が痛い。私が悔しい部分は、そういうところだ」とし「私はたくさん殴られて、正直すっきりしている部分もある。今回じゃなかったら暴かれただろうかと、どこかでこのような気持ちがあった。改善されるための過渡期? 私も私がこのようなことを経験するとは思わなかったが、どうにかここまで来た」と語った。

NewJeansの制作過程で、メンバーの純粋さを守ることに集中したという。ミン・ヒジンは「純粋な雰囲気を、デビューして活動する間まで維持するにはどうするかが要だった。私が感じるに、アイドルにはあまりにも規律が多かった。世の中は『人形だ』と悪口を言うが、そうしなかったら悪口を言うくせに。それを10代が背負うにはとてもつらい」と言いながら、NewJeansを含むアイドルの苦痛を代弁した。

続けて「メンバーたちと初めて会った時も、彼女たちにとっては私が何をしても“社長”だったし、母親と年も同じだ。どれだけ尽くしても難しい。母親は子供が前で何をやっても追い出さない。うわべだけ母親のフリをしているのではない」とし「母親は子どもが何をしても受け入れてくれるから。メンバーたちにそのような心をあげようと思った。あなたが何を間違えても、私は絶対に捨てないということを教えてあげた」と説明した。

また「NewJeansにガスライティング(被害者に些細な嫌がらせを行ったり、わざと誤った情報を提示し、被害者が自身の記憶、知覚、正気を疑うよう仕向ける手法)をしたというが、私は彼女たちが賢くあってほしくて、いつも全て正直に話す。どのようにすれば上手く仕事ができるか、どのようにこの業界が回っているのか。適度に、できるだけ事実に近い話をする。そうしないと後でショックを受けずに済むから。世の中を学ばなければいけないが、最大限痛みを少なくして段階を踏んでいる。しかし、この業界はそんなに美しい世界ではない。それを知らないからといって優秀ではない。よく知ってこそ貫禄が出る」と付け加えた。

ミン・ヒジンは「私の友人の先生が、大峙洞(テチドン)の母親みたいだと言った。別の友人が『この子はオルタナティブスクールに通わせる母親だ』とも言った。NewJeansはオルタナティブスクールに通わせているようなものだ。この純粋さが、老いれば仕方なくなくなっていく」とし「ある程度の年齢までは、できる限り守ってあげたい。芸能人たちが幼い頃からお金の味を知ってしまうと、純粋さがなくなる。絶対に母親に(お金を)預ける。いくら稼いだかも知らない。それをその子が知り始めたら、正常な人生が送れなくなる。そのようなことに慣れて、当然だと思うようになれば憎くなる。現実味がなくなり始めたら、私が考えるグループとは遠くなると思う」と明かした。

HYBEの資本があったからこそ、NewJeansの誕生も可能だったという指摘に、間接的に言及したミン・ヒジンは「2つの部類に分けられる。経済観念があまりにもないか、教えてあげても分からない石頭か。もしくはアルバイトか。私は1年で完済した。私のおかげで得たものがどれだけ多いだろうか」とし「このような話をしてはいけない。皆さんは知らないことが多い。契約期間を遵守してこそ受け取れるお金がある。バカなのか純粋なのか、それを知らなかった。当然だと思ったし、革新し、組織を刷新したいと言った。私の提起方法が気に入らなかったかもしれないが、最大限礼儀は守ってやった」と説明した。

続けて「ADORは上場会社ではない。あの中にある系列社だから自由にできる。私にはそのような負担がないから、社長がバランスを取りながら、アートもしながらビジネス的にも素晴らしい何かを見せる仕事をしたかった。これを組み合わせてどこまでできるのか、爆発させてみたかった」と付け加えた。

どのような攻撃があっても信じてはいけないと強調したミン・ヒジンは、最近HYBE関係者の録音データを公開したある記者に言及し、自身を取り巻く様々な噂を指摘した。「私はカカオとどんな仲でもない。ありえない話がどこから噂になるのか。ムンクで裏広告? 私は暇さえあればメンバーたちを美術館に行かせる。一体どうしてそれが裏広告になるのか。騙される人はいないだろうと思うが、あまりにもありえない事だ。潔癖症があって、私に会いたいという投資家は多いが、誤解されたくなく会っていない。(会社から)出ていく心がないと言っているのに、何を想像しているのだか」と話した。

ミン・ヒジンはこの日、予定されていた100分を超え、134分間自身の信念から鬱憤まで吐露した。講演の直前には、DJ件プロデューサーのFRNKが制作した、NewJeansの未公開曲のデモまで公開。ミン・ヒジンは「今回の音盤は誤解を解くものにしたい。ファンの方々に真心を伝えるアルバムにしたい」と強調した。

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記者 : イ・ハナ