YGの“ダンサー”イ・ジェウク取締役「BIGBANGに教えることが新たなチャンスになった」

OSEN |

YG ENTERTAINMENT(以下YG)の前に、HYUN企画があった。ソテジワアイドゥル出身のヤン・ヒョンソクが設立し、初の作品としてKeep Sixをデビューさせた。人々が一目で分かるほどではなかったが、ダンサーの中では働いてみたい会社1位だった。

YGコンテンツ本部・振付け室のイ・ジェウク取締役は、その当時のHYUN企画から共にしてきたYGの生き証人の一人だ。ヤン・ヒョンソク代表を除けば、この会社に最も長く携わってきた彼は、食事代を節約するため、ダンサーたちが交代制で弁当を作ってこなければならなかったHYUN企画時代を今も鮮明に覚えていた。“ウップだ(面白くて悲しい)”という最近の新造語がかなり当てはまるという当時の話を聞いていると、彼と向かい合って座っているソウル合井洞(ハプジョンドン)YGビルの有名な社内食堂の高級感のあるインテリアが改めて不思議に思われた。

イ・ジェウク取締役は“バッグダンサー”と呼ばれた時代を経て、ダンスを自ら構想するディレクターとして活躍している。BIGBANGが他のアイドルグループとは違い、それぞれのメンバーがはっきりとした個性を持ってステージの上で自由に“遊んでいる”と評価されることには、イ・ジェウクがカル群舞(体を曲げる角度から指先まで完璧な刃物のように合わせるダンス)から脱した自由な振付けを構成したことも大きく影響している。たった2日で一つの振付けを急いで完成させなければならない厳しいスケジュールも経験してきた彼は、「韓国初のダンサー出身の公演演出家を夢見ている」と覚悟を明かした。

ダンサーなら誰もが夢見ていたHYUN企画

―HYUN企画だなんて、違和感があります(笑) その時のYGはどうでしたか?

イ・ジェウク:ダンスに興味がある人なら誰もが入りたいと思う会社でした。ダンスのことが分かる人は皆、ソテジワアイドゥルのヤン・ヒョンソクが好きでしたから。どうしても入らなきゃと思ったところ、ソテジワアイドゥルのダンサーの兄さんと知り合って、チャンスを掴むことができました。

―その前からダンスがとても好きだったんですね。

イ・ジェウク:家で布団を敷いてたくさん練習しました。中学3年生の時から始めて、ソテジワアイドゥルやDUEXなどを熱心に見ながら練習しました。ダンスクラブにも沢山行ったし、かなりお洒落でした。耳にピアスの穴も開けたし、髪も染めたし。

―なんだか馴染みのあるストーリーになりそうですね。家出したこともありそうな?(笑)

イ・ジェウク:はい(笑) 母と父が出かけるのを待って、家に帰って寝ました。

―HYUN企画での生活はどうでしたか?

イ・ジェウク:その時も社長が服や髪型、靴などを沢山サポートしてくださいました。社長もダンサーなので、少し違ったと思います。その時、僕らのチーム名はHIGH TECHでした。リハーサルの時と本番の時に違う服を着て、普通の新人歌手より雑誌のグラビアも沢山撮りました。

―普通、ダンスチームは別の会社でするものだと思いました。

イ・ジェウク:僕たちは徹底して、この会社に所属して動きました。4人のダンサーが所属していたのですが、本当に大変でした。兄さんたちが皆ジャズダンスをしていた方だから、180度の開脚を重視していたんです。そのせいで大変だと辞めてしまう人も多かったです(笑) その時、唯一頼れたのが社長でした。社長が「明日テレビに出るから、アザを作るんじゃないぞ」と言ってくれました。だから、社長だけ待っていました(笑)

―温かい雰囲気ですね。今よりもっと人間的な雰囲気だったのでしょうか?

イ・ジェウク:そうではありません。その時の方がもっと厳しかったです。放送が終わったら、皆で集まってチェックしました。ダンサーを一人ずつ。社長があまりにも几帳面なので、「じゃ、ジェウクを見よう」と言うと、非常に緊張しました。ダンサーチームが今よりもずっと多かったので、熱心にしないわけにはいかなかったのです。今はむしろ少ない方です。その当時は100チームありましたが、今は15チームしかありません。ダンサーが金にならないという言葉のせいでかなり離れていく人が多かったし、ダンスの才能がある人は、歌手を希望することも多いですからね。

―これまでダンサーとして何回ステージに上がりましたか?

イ・ジェウク:それはどうしても計算できません。Jinusean、1TYM、SE7EN、GUMMY、BIGBANG、2NE1など、皆のステージにあがってきたので。ダンサーとして活動したのは、BIGBANGのSOLの「WEDDING DRESS」のMVが最後でした。ダンサーなら当然ステージに立ちたいという気持ちはありますが、それを変えることにしたのです。ディレクターをしながら振付師にフォーカスを変えることも良さそうだったので。

サイダーも隠れて飲まなければならなかったあの頃

―沢山の活動の中でも、特に記憶に残る時期があると思います。

イ・ジェウク:どうしても苦労した時期が一番記憶に残っています。Jinuseanのデビューを準備していた時でした。Keep Sixの成果が良くなくて、会社全体が敏感にならざるを得なかったのです。デビュー曲「GASOLINE」のステージで披露するダンスを4ヶ月間にわたって作りました。本当に毎日十数時間も練習していましたね。

―K-POPアイドルのものすごい練習量の根源がそこにあったんですね(笑)

イ・ジェウク:すごかったです。デビューの放送があった日も、午前8時までダンスを変えていました。その初ステージは本当に忘れられません。

―それでもそのステージは成功したじゃないですか。だいぶ楽になったのではないでしょうか?

イ・ジェウク:それでも生活に変わりはなかったです。

―苦労した話を少し聞かせてください。

イ・ジェウク:洗車も僕たちが自分でしました。ご飯は、当時練習生だったTEDDYと僕が交代で作りました。当番を決めてツナ缶を買って食べて、食器洗いも一緒にしました。その冷たい水でTEDDYと僕が皿洗いをした場面は忘れられません。最近でもTEDDYとあの時の話をします。

―あの有名プロデューサーTEDDYのことでしょう?(笑)

イ・ジェウク:そうです。それでも良くなった方でした。最初はダンサーたちが代わり番こに弁当を作ってきました。家で弁当を7つも作って出勤した時も覚えています。

―仕事はどうでしたか?

イ・ジェウク:Jinuseanが人気になって、本当に忙しくなりました。ある時は、一日に踊るスケジュールだけで4つもありました。ところが、その一つのスケジュールで通常5曲も歌うんです。数えてみたことがあるんですが、僕は一日に38曲のステージに立っていたんです。その時はバラエティ番組が終わる時もちゃんと歌を歌いました。一日にヘリコプター、飛行機、オートバイ、ボートを全部利用したこともあります。SEAN兄さんは倒れたこともあります。8人乗りのワゴンに14人ずつ乗って、移動しながらそんなに働きました(笑)

―とんでもないことですね。

イ・ジェウク:それでも車の中にいる時間が一番良かったです。眠ることができますから。

―それをどうやって耐えたのですか?

イ・ジェウク:スケジュールを終えてダンサー6人が同時に逃げたことがあります。SBSビルの隅に、予めそれぞれのかばんを置いて、スケジュールが終わるや否や一斉に逃げたのです。3日間じっとしていました。ポケベルが鳴って、社長が「今戻ってきたら何も言わないから」と言いました。怖くて戻りました(笑)

―クーデターが失敗しましたね(笑)

イ・ジェウク:今思うと面白いですが、その時は悲しいことも沢山ありました。1TYMがデビューした後、地方に行って皆で一緒にご飯を食べましたが、僕たちダンサーはサイダーも注文できませんでした。メンバーたちは歌手だから飲み物も注文するのに、僕が飲み物を注文するとマネージャーに沢山悪口を言われました。その時、TEDDYがこっそりサイダーをくれましたが、とても切なかったです(笑)

―飲み物もよく買ってくれる、お金のある企画会社もたくさんあったはずなのに、どうしてYGにいらっしゃったんですか?(笑)

イ・ジェウク:それでも憧れの人とダンスを学ぶことは、本当に特別な経験だったんです。僕はうちの企画会社が一番かっこいいと思ったので。

―素敵ですね。だからずっとYGにいらっしゃるんですか?

イ・ジェウク:いいえ。1回辞表を出したことがあります(笑) 心を鬼にして耐えているうちに「今に見てろ」という気分になりました。もちろん、結局社長の能力を認めて戻ってくるしかなかったんです。僕がこんなにいい振付けを作れるのも社長のおかげで、こんなに認めてくれる会社もありませんでしたし。悪口を言われても僕の成功のためだということが分かりますから。

―辞表はいつ出したんですか?

イ・ジェウク:1TYMの2ndアルバムの活動が終わってからです。他のところから提案がありました。そこに行けばトップになれると言われたので。でも、結局かっこいいステージが懐かしくなって戻ってきました。

もう一度巡り会えたチャンス…BIGBANGに教えること

―快く受け入れてくれましたか?

イ・ジェウク:最初は邪魔者扱いでした。その時は本当に社長が憎かったりしました。機会をくれなかったので。本当に裏切りみたいなことが好きじゃない方だから、しばらく僕は透明人間扱いされました。そうした中で初めて訪れた機会が、当時小学生だったヨンベとジヨンを教えろということでした。

―BIGBANGのSOLとG-DRAGONですね。

イ・ジェウク:はい。子供たちを教える人が必要だったのですが、暇な人間は僕しかいなかったからです。その時、僕は決めました。何かを見せてあげなきゃ、と。だから、昼の2時から翌朝の6時まで勉強して、教えて、また勉強しました。その幼い子供たちと一緒に本当に一生懸命やりました。幸いなことに、そんな風に僕が教えた振付けを社長が見て、いいと思ってくださったようです。そうやって、自然に振付けを作ることになったのです。

―そうしてディレクターの道に入ったわけですね。

イ・ジェウク:その時、僕はBIGBANGの「LA-LA-LA」とSE7ENの「LA LA LA」を一緒に作ることになりました。そうする中でダンスを作ることが楽しいということに気付きました。僕にとって、ターニングポイントになった時期ですね。

―BIGBANGのダンスは、他のグループとは確かに違いました。

イ・ジェウク:その時は、ダンサーたちが最初から歌手と立って群舞を合わせる役割を主にしました。僕はBIGBANGのメンバー5人がいて、ダンサーたちが入ったり出ていったりすることで、メンバーたちをより際立たせるようにサポートしたらどうかと思いました。それからそのようなスタイルのダンスが多くなりました。

―SOLとG-DRAGONに教えることは、どうでしたか?

イ・ジェウク:難しくはなかったです。ジヨンにだけ話しておけばすべてが終わったんです。踊っているのを見て何か合わなかったら、ジヨンだけを別に呼びます。ジヨンだけひどく叱ったら、ジヨンが理解して次の日はぴったり合わせてきます。彼も何しろ几帳面なんですよ。

―他のメンバーにも教えたと思いますが、誰が一番大変でしたか?(笑)

イ・ジェウク:どうしてもT.O.Pが……(笑)

2日で一曲のダンスを完成させる強行軍…外国のダンサーとのコラボレーションは良いチャンス

―BIGBANGはメンバーがそれぞれが楽しく遊んでいるような振付けが多いですね。それが大きな差別化になりました。

イ・ジェウク:そうですね。一人が歌っているとき、4人が同じダンスを踊っているのは面白くないと思いました。フリースタイルに見えますが、もちろん全部決まった振付けです。

―考えてみれば、これといったポイントダンスもなかったようです。

イ・ジェウク:(笑) それは僕がポイントダンスが苦手だからです。自然にいたずらをしている中で出てくることは面白いけど、流行のために努力しながら作ることは難しいです。実際に流行ったりしないですし。

―ダンスを作る過程はどうですか?

イ・ジェウク:歌をメールで受け取ると、以前は一日中聞きながら構想したりしていました。歌詞も吟味して。この部分には女性ダンサーが入って来なきゃ。ここで男性に変えよう。そういうふうに大きな絵を描いた後、細かく切って合わせてみたりします。コーラスやポイントは最後まで残しておきます。

―社長からOKをもらわなければならないでしょう?

イ・ジェウク:90%以上修正の指示が入ります(笑) 修正を経てシミュレーションダンサーたちを連れて完璧に構想するまでかなり時間がかかります。ですが、この頃はそうでもありません。2日以内に作らなければならない時も多いですね。

―2日ですか?

イ・ジェウク:例えば、G-DRAGONの活動では「CROOKED」「NILIRIA」「BLACK」「WHO YOU?」「COUP D'ETAT」のステージを1~2週おきに披露しなければなりませんでした。毎週楽曲が変わるわけです! 火曜日にどんな歌を歌うのかが決まったら、その時から2日間一生懸命に作ります。テレビ局には少なくとも金曜日の前にダンスの試案を送らなければならないので、本当に大変です。やっと放送を終えて一山越えたと安堵すると、その次の週には新しい曲が待っています(笑)

一応歌を1節だけもらって3日間にわたって振付けを全部作りましたけど「へぇ~、歌が全部変わったじゃん?」としたこともあります。そういう時は短い時間に脳をフル稼働させなければならないのです。こんな部分には僕も悩みが大きいです。

―外国のダンサーとも一緒に作業することが多いですね。そんな作業はどういうふうに進行されるのでしょうか?

イ・ジェウク:彼らと一緒に働くことは本当にいい機会になります。たくさん学ぶことができるので。最近どの振付師は実力があってトレンドを押さえているのか、いつも見ています。だから僕の方から連絡して、一緒に作業したりします。SOLの「RINGA LINGA」を作ったパリス・ゴーブルもそんなケースでした。その人もSOLと作業しながらアジア地域で有名になり、それから仕事もうまくいっていると聞きました。BIGBANGが有名なので、BIGBANGのダンスを担当した経歴も役に立つわけです。

―ああ、私たちは外国のスタッフの有名税に頼っていると思っていましたが、その反対の状況もあるわけですね。

イ・ジェウク:アメリカでダンスが上手な人は、皆ロサンゼルスに集まります。ものすごい数でしょう。アジアの有名グループと一緒にしたということも、当然良いキャリアになるわけです。彼らは先入観がないのでいいですね。韓国のスタイルやポイントダンスがなければならないという考えがまったくないので、新しいものを作ることができます。

ダンサー出身公演演出家の第1号を夢見る

―YGのダンスチームになるため訪れてくる人も多いでしょう?

イ・ジェウク:年に1~2回オーディションがありますが、外国からも結構来ます。でも、沢山採用することはありません。

―主にどんなところを見ますか?

イ・ジェウク:どうしても一人で長く練習した人たちは、グループ内で適応することが難しいようです。癖がない人がいいです。大きな絵が重要な作業なので、無難な人がいいです。以前、社長に背が低くて不細工だと言われて傷ついたこともありましたが、仕方ないですね。ビジュアルも重要です(笑) また、どれだけスタイリッシュなのかも重要な基準です。僕たちダンサーチームが本当にかっこいいと自負しています。

―最近は親たちも子供がダンサーになると言ったら、かなり反対するのではないでしょうか。

イ・ジェウク:そうでしょう。将来性がないと思うはずですから。もちろん、とても厳しいですが、振付師もそれなりにちゃんと食べて生きていけます(笑) あえて歌手だけにこだわらないでほしいです。それぞれ才能が違いますから。

―これからのディレクターとしての目標は何ですか?

イ・ジェウク:その次のステップは公演ディレクターです。韓国にはダンサー出身のディレクターがいません。海外では振付師をしてから公演ディレクターになる人が多いです。僕もその道に進みたいんです。そのためには映像も勉強しなければならないし、セットも、特殊効果も全部勉強しなければなりません。だから、できるだけ多くの公演を観るため努力しています。

―最近一番気を使っている作業は何ですか?

イ・ジェウク:間近に迫った2NE1のコンサートです。本当にかっこよくて、面白いものを準備しています。期待してください!

記者 : イ・ヘリン