【映画レビュー】「ラストスタンド」から見える「グッド・バッド・ウィアード」

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写真=Di Bonaventura Pictures、Daisy Entertainment
ラスベガスのある静かな町。一人の警察官が道路にパトカーを止めて暇そうにドーナツを食べている。その瞬間、静寂を破る音が聞こえてくる。ものすごいスピードであっという間に過ぎ去った車。警察官は、スピード測定機を見て速度を確認する。目を疑うようなスピードだ。時速317km。

「ラストスタンド」は、今から目にすることになる映画の長所が何かを知らせるかのように爽やかなスピードで幕を開ける。だが「ラストスタンド」が、「ワイルド・スピード」のように車のスピードに集中する映画だと誤解されては困る。「ラストスタンド」は、相反する二つのスピードがぶつかることで起こる衝突の話だ。

「『ラストスタンド』に登場する、世界最速のスピードで逃走する麻薬組織のボスと、もしかすると世界で一番遅く、何も起こりそうにない田舎の国境の町の保安官が、生涯最悪の決闘を繰り広げるという設定が印象的だった」とキム・ジウン監督は明かし、「止めても突き破っていく者と来れば無条件に止める者、強力な技術で武装した者と拳銃さえまともに撃ったことのない平凡な人々の話が面白かった」と話した。

キム・ジウン監督がこれまでに韓国で制作した長編映画、オムニバス映画、短編映画とハリウッドで作った「ラストスタンド」の共通点を見つけることは、この映画に対し初めて投げられる質問だ。


「ラストスタンド」から見える「グッド・バッド・ウィアード」の記憶

「ラストスタンド」から見えるスピード感のあるシーンは、“キムチ・ウェスタン”を掲げた「グッド・バッド・ウィアード」を連想させる。キム・ジウン監督が「グッド・バッド・ウィアード」で磨いたアクションシーンの構成能力は、「ラストスタンド」でも存分に発揮される。

人物からも既視感を覚える。良い奴(GOOD)が保安官のレイ・オーウェンズ(アーノルド・シュワルツェネッガー)なら、悪い奴(BAD)はメキシコに脱走する麻薬王ガブリエル・コルテス(エドゥアルド・ノリエガ)であり、銃収集が趣味の変わり者キャラクター、ルイス・ディンカム(ジョニー・ノックスヴィル)は変な奴(WEIRD)に位置する。ルイス・ディンカムに「グッド・バッド・ウィアード」のユン・テグ(ソン・ガンホ)を連想させる羊毛の帽子を被らせたのは、自身の映画に関心のある観客だけに向けたキム・ジウンなりの冗談だったのかもしれない。

イタリアの映画評論家Alessandro Barattiは、キム・ジウンを「アイデンティティに対する絶対的な問題を提起する監督」と評した。正体の分からない家族「クワイエット・ファミリー」、仮面の人物「反則王」、自分が何者なのかを尋ねる「箪笥」、壊れてしまった感情の混乱状態「甘い人生」、国を失った者たちの追って追われる活劇「グッド・バッド・ウィアード」、自身の内面と外面の悪魔を見ることになる男の破滅劇「悪魔を見た」まで、キム・ジウン監督が作った映画は絶えず“アイデンティティ”について問うている。「人類滅亡計画書」の「天上の被造物」、短編作品である「メモリーズ」、「カミングアウト」でも同じだ。

だが、ハリウッドの嗜好に合わせて作られた「ラストスタンド」は、これまでのキム・ジウン映画に比べると彼の個性が薄くなっている。シナリオや演出など、多くの権限を与えられた韓国に比べて、雇われ監督となったハリウッドでは、自分だけの色を最初から見せることなど、事実上不可能だったのだろう。ハリウッドが、アジアを代表する監督であるジョン・ウーやツイ・ハークにも簡単に認めなかった裁量を、キム・ジウンに突然与えるわけがない。

逆に「キム・ジウン監督がなぜ『ラストスタンド』を選んだのか?」を考えれば、彼がハリウッドで見せたかったことが何なのかが見えてくる。


興味深い「真昼の決闘」と「リオ・ブラボー」を統合させた結果

「ラストスタンド」は、“決まった時間”に町に来る悪党とそれを止める“保安官”の英雄譚で、明らかにフレッド・ジンネマン監督が作った西部劇の傑作「真昼の決闘」から借りてきた構図だ。「真昼の決闘」がずっと時計を見せ続けたのと同様に、「ラストスタンド」も意図的に時間を浮き彫りにする。

だが、町を守ろうとする保安官を冷遇する街の人々を通して、マッカーシズム時代を批判的に描いた「真昼の決闘」とは違って、「ラストスタンド」は英雄という立場に対し相反した態度を見せる。むしろ「ラストスタンド」は、ハワード・ホークスが「真昼の決闘」の保安官を弱気だと批判しながら作った「リオ・ブラボー」の意見を受け入れている。英雄は英雄らしく行動すべきで、決して誰かに頼ってはいけないというハワード・ホークスの考えは、そのまま「ラストスタンド」の人物たちの行動に反映されて表れている。

「ラストスタンド」のレイ・オーウェンズ保安官は、「奴が我々の町に来れば、私たちの責任になる」と話しながら正義を守るべき義務を強調する。彼は絶対に逃げず、町の人に助けを求めたりしない。これは唯一、保安官のような英雄が背負わなければならない使命である。

「真昼の決闘」のラストシーンで保安官は自身のバッチを地面に投げ捨ててしまう。だが「ラストスタンド」では、主人を失った保安官のバッチが次の人に渡される。恐らくキム・ジウン監督は(悪に対抗し)善を守る人は、その人がいなくなっても次の人に受け継がれなければならないということが西部劇の理想だと思っていたのかもしれない。そのような面から見れば、彼の映画でずっと扱われてきたアイデンティティが「ラストスタンド」では、ジャンルのアイデンティティにまで拡大されたと解釈することもできる。

キム・ジウン監督が「ラストスタンド」を選んだ理由は何だろうか? 確実な答えは彼だけが知っている。ただ「ラストスタンド」を通じ、キム・ジウン監督が最もアメリカ的なジャンルである西部劇の傑作2本を、一つの作品に統合する作業を実現させたかったことは察せられる。「ラストスタンド」は、もちろんアクションも素晴らしいが、それよりも先に言及した統合について高く評価したい。キム・ジウン監督初のハリウッド挑戦は、実に興味深い結果になった。

記者 : イ・ハクフ