キム・ドフン監督「デビュー作がダメになり、15年の忍苦の末『太陽を抱く月』が誕生」

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今年の頭に放送され、40%を超える視聴率で視聴者の愛を独り占めにしたドラマ「太陽を抱く月」。このドラマは韓国での放映期間中、インターネット検索ワードランキングを掌握した。子役から主演、助演を問わず、高い人気を得た。主人公のキム・スヒョンは「太陽を抱く月」を通じて、子役のイメージから脱し、トップスターのタイトルを手に入れた。

「太陽を抱く月」が成功した裏には、中心となったキム・ドフン監督がいた。キム・ドフンのドラマには、人の心をドキドキさせる緊張感が溢れている。しかし、このような能力を手に入れるまで、彼にも物凄い苦痛が伴った。彼の苦痛はドラマを諦めたくなるほど深刻で、長く続いた。だが、彼はそれを乗り越えた。彼だけの演出ストーリーを加減なく描写した。

◆死のトラウマ、辛いデビュー記

僕の人生の苦難はアメリカに住んでいたとき、初めて訪れた。韓国電力で勤務していた父が海外に派遣されることになり、家族みんなが4年ほどアメリカで暮らした。人種差別がひどかった。友達の母から殺されそうになった記憶がある。彼女はただ、僕が自分の息子と仲良くするのが嫌だという理由で、僕の首をつかんでプールに入れた。首の筋肉が破裂した。恐ろしかった。

法廷争いにまでなったが、結果は友達の母が有利だった。情緒不安定ということで無罪になったのだ。40~50分間の死闘を繰り広げたが、助けてくれる人はいなかった。翌年韓国に戻ってきたが、そのことを含め、アメリカで経験したことはトラウマになってしまった。韓国での生活も平坦ではなかった。毎日勉強のみを強要する教育環境に拒否感があった。急激な環境の変化は情緒的に良くなかった。

僕は子供の頃から劇芸術が好きで、手に入れにくいビデオを集めるのが趣味だった。大学のときは演劇部の活動をした。就職するときがきて、僕が人より楽しく、上手にできることを研究した。それは演出だった。しかし、演劇は貧しかった。大学3年のとき、父が亡くなったので、家の経済事情があまり良くなかった。とても芸術的な職業を持つ状況じゃなかった。また映画は、演劇映画学科出身のみが可能な雰囲気だった。それで決めた職業がドラマの監督だった。

助監督として初めて参加した作品は、キム・ナムウォン先輩のデビュー作である「英雄反乱」。何も知らない初心者で、かなり迷い、怒られたりもした。その後、「日差しに向かって」「彼女の家」「田園日記」など、様々な作品で助監督として働いた。デビュー作はMBCベスト劇場「片思い」。しかし、ミニシリーズを演出するチャンスはなかなか手に入れられなかった。自分の意見が強く、言うことを聞かない演出だと、機会を与えてくれようとはしなかった。精神治療を受けるほどストレスがひどかった。

◆冷たい視線の中で作ったデビュー作の失敗

仲間外れだった。みんなが僕のことを嫌っていると思った。到底耐えることができなかった。外国に行って頭を冷やそうと思った。休職を申し込もうとしたとき、思わぬチャンスが舞い込んだ。新しいデスクが僕にチャンスをくれたのだ。その作品がミニシリーズのデビュー作である「スポットライト」だった。見てみろよ、という気持ちで頑張って作った。

記者とアナウンサーの物語。女優がみんなやりたいと手を挙げた。ソン・イェジンが辞退することを待ち望む女優が列を作った。しかし、ソン・イェジンが出演を決め、キャスティングも希望通りになり、途中で事情があって交代されたが、脚本家も「白い巨塔」で当時ホットだったイ・ギウォンだった。もちろん、僕を嫌う先輩は依然として冷たい視線を送った。見せてやるという気持ちで頑張ったが、結局はダメだった。

ドラマがダメなら、自分の味方を得たらよかったのに、僕はドラマも、人もすべて失った。ドラマがダメになると、責任は監督が取るという雰囲気になる。会社で僕を見る冷たい視線が感じられた。ダメになっていく過程を知っているのに、そのすべてを全部僕に押し付けるので、人間が嫌いになった。社交不安障害、パニック障害の直前まで行った。「スポットライト」が最初で最後という不安、演出人生はもう終わりだと思った。一人では克服できなかった。だから、スペインに旅立った。

サンティアゴの800km巡礼路、世界の巡礼者たちが訪れる場所だった。世界的な作家、パウロ・コエーリョもこの道を歩いて小説家になった。1ヶ月という期間を定め、一人で歩き始めた。最初の一週間は人を恨んだ。後からは歩くのが大変だから、何も考えなくなった。ある瞬間、自分の人生が見えてきた。ドラマをやれと誰かが強要したわけでもないのに、僕はなぜ、辛いと人を恨んでばかりだったのか?


◆人とのコミュニケーションを気づかせてくれた放浪記

サンティアゴの巡礼路でいい人たちに出会えた。イタリア人女性2人、イギリス人男性2人。彼らは純粋だった。組織生活で出会った人たちとは違った。僕たちは巡礼路を一緒に歩くことにした。一緒にご飯を作って食べて、疲れたらお互いを引っ張ってあげた。最後、サンティアゴに着いた日、僕たちは抱き合って泣いた。感動が押し寄せてきた。彼らとは今も連絡を取り合う、兄弟姉妹のような関係になった。

大自然の中で“世の中を流れるがままに経験してみよう”と思えてきた。しかし、現実は変わらなかった。旅行から戻ってくるや否や、主調整室への異動を命じられた。ドラマがダメになると左遷される部署だった。正直、プライドが大きく傷ついた。40歳手前の時点、遅くなる前に転職を考えてみることにした。サンティアゴで外国の友達と料理をしながら幸せだった日々を思い出した。料理を独学し始めた。

しかし、主調整室で新たなことに気がついた。ドラマ、バラエティ、教養、MBC、KBS、SBS問わずテレビをずっと見ていると、視聴者が何を望んでいるのかが分かってきた。視聴者が見たいものではなく、僕は自分が作りたいものだけを作ってきたという事実を直視するようになった。長い間、ヒットできなかった原因を知った。その後、ブログ、Twitterなどを通して人々とコミュニケーションをとり始めた。そうやって1年間、人々が望んでいるキーワードを整理することができた。

ドラマ局に復帰したが、世間が僕を見る目はまったく変わらなかった。また1年ほど何もしなくなった。その間、大変なことが次々と起きて、転職に対する思いはますます大きくなった。海外の料理学校に行く計画も具体的に立て始めた。そんな中、思わぬチャンスがやってきた。MBCのドラマが曜日を問わず3社の中でビリが続いていた時期だった。いきなり水木ドラマ3~4月に穴があき、そのとき与えられた作品が「ロイヤルファミリー」だった。

◆MBCのヘルプで、痛快な人生逆転

久しぶりにやってきたミニシリーズ演出の機会。当然、反対が強かった。僕の人生において、最後のドラマという覚悟で作った。第5話から視聴率1位となった。水木ドラマでMBCが1位になったのは久しぶりだった。会社から認められた。「ロイヤルファミリー」を作りながら、7~8年の間に視聴者の目が変わったことに気づいた。演出のノウハウもできた。

しかし、喜びもつかの間、「ロイヤルファミリー」の後、「最高の愛~恋はドゥグンドゥグン~」が成功してから、MBC水木ドラマ残酷史が再び始まった。放送を4ヶ月残して、2012年1~2月の水木ドラマ編成に穴があいた。本部長と局長は丁度そのとき、「太陽を抱く月」に委ねた。メディカルドラマを準備していたので、最初は辞退した。しかし、長い説得の末、提案を受け入れてくれた。

MBCがミニシリーズで時代劇を作ったのは「チェオクの剣」以来10年ぶりだった。特別ドラマ1本を除いて、時代劇の経験がなかった僕は迷い始めた。衣装、美術、セットなど問題は山積みだった。しかも、時代劇はキャスティングを少なくとも1ヶ月前に終えなければならないことさえも知らなかった。紆余曲折は多かったが、1話から水木ドラマ1位となり、子役の分量で30%を超える高い視聴率を記録した。めでたいことだった。

「ロイヤルファミリー」に続き、「太陽を抱く月」までヒットし、仕事にも余裕が持てた。以前は、追われるように仕事をしていたとしたら、今は追われる気分はなくなった。どん底と絶頂をすべて経験したからか、世間を見る気持ちも変わった。僕の前に置かれた数々の偶然に不安を抱いたり、必然的にしようとしたら、人生は辛くなる。思いっきり失敗して、諦めてこそ、違う成功の踏み台を見つけられると後輩たちに話してあげたい。


◆話しきれなかったこと

演出作の視聴率順位:「太陽を抱く月」「ロイヤルファミリー」「スポットライト」の順だ。

最高の作品:「ロイヤルファミリー」と「太陽を抱く月」。特に「ロイヤルファミリー」は厳しい環境の中で俳優とスタッフ、演出が一致団結して作った敗者復活のような作品だ。みんな不満を言わずに一生懸命に作った。今も「ロイヤルファミリー」チームとは時々会ってお酒を飲む。

残念な作品:「スポットライト」。今の僕にやらせたら、人々により簡単に近づける方法を知っていただろうに、あのときは自分のエゴがあまりにも強すぎた。ドラマの本質より、演出で目立ちたがっていたと思う。しかし、今は自分を捨ててこそ、他のことを包み込めるということを知った。

ドラマ制作の段階でもっとも辛い段階:初稿を作るとき。無形の何かから有形の活字を作る過程が辛い。

相性がいい脚本家:脚本家とはいつも難しい。ケンカをしても一緒にいなきゃいけない夫婦のようだ。協力しなければならないのに、自分の意志を貫かないと耐えられない脚本家がいる。そんな面で「太陽を抱く月」のチン・スワン脚本家とは相性が良かった。作品に入る前にいい方だという話は聞いたが、一緒にやってみてその理由が分かった。自分の意志がちゃんとあり、同時に演出を配慮する面が多い脚本家だ。

これから一緒にやってみたい脚本家:特にいない。僕と観点が似ていて協力のできる脚本家なら誰でも。

一緒に仕事をした最高の俳優:僕はイメージが偏ってしまった俳優は好きではない。そんな面でキム・ヨンエ、チョン・ミソン、アン・ネサンは何を投げても新しいものを密度のあるものにする最高の俳優たちだ。

懸念したが、急激な成長を見せた俳優:スエとチョン・イル。スエは演出デビュー作だったMBCベスト劇場「片思い」のヒロインだった。僕が探していたイメージだった。演技の経験もなく、歯列矯正装置をつけていた。周りの反対が強かったが、推し進めた。放送されてから、視聴者掲示板はスエに対する関心で盛り上がった。

チョン・イルはtvN「美男<イケメン>ラーメン店」が終わって2週間しか休めなかった状態で「太陽を抱く月」に合流した。最初は、演技の幅が多様ではないと思った。しかし、あんなに頑張る俳優は初めてみた。毎日少しずつ演技が上手になっていった。良かった。

ナム・ボラはこれからが楽しみな女優:「太陽を抱く月」出演当初は、子どものように映っていたが、日増しに成長していた。演技の実力が凄いと思う。童顔は短所になるかも知れないが、ちゃんと自分の位置を築けると思う。

新人のとき抜擢し、今はトップスターになった俳優:MBCベスト劇場「片思い」のスエ。

会うたび申し訳ない気持ちがある俳優:ダメだった作品の俳優にはいつも申し訳ない。

また一緒にやってみたい俳優:いい俳優は本当に多い。「ロイヤルファミリー」と「太陽を抱く月」で一緒だった俳優たちとはまた一緒にやってみたい。ヨ・ジング、キム・ユジョン、キム・ソヒョンなど「太陽を抱く月」の子役たちが立派に育って成人した後、彼らとまたやってみるのも面白そうだ。

一度は一緒に仕事をやってみたい俳優:ひとつのイメージが定着した俳優よりは、いくつかのイメージを持つ俳優が好きだ。そんな意味で、昔から好感のある女優はイム・スジョンだ。清純、魔性の女、おバカなど、多様なイメージを持っている。

俳優は特にいなかったが、1ヶ月ほど前、偶然、飲み会でソン・ジュンギと相席して知った。ソン・ジュンギは華やかな俳優ではないが、作品ごとに演技が進化しており、多様なキャラクターを演じようとするところがいい。演技をイメージではなく、本質からアプローチしようとする面が伺える。彼が持つ人文学的なイメージも気に入っている。

演出に影響を与えた演出家:パク・ソンス先輩の影響を多く受けた。助監督としてパク・ソンス先輩と特別ドラマとミニリシーズ(毎週連続で2日間に2話ずつ放送されるドラマ)を一緒にしたが、監督としてのこだわり、根性、真面目さを気づかせてくれた。

自分の作品をひとつの文章で定義すると:「太陽を抱く月」をして、ドラマの影響力を知った。偉大なる人たち、職人たちの物語を作りたい。自分のものにこだわる人々が馬鹿にされるおかしい世の中が嫌だから。人間の大切な価値を物語るドラマを作りたい。

演出として必ずやってみたいジャンル:スリラーものだ。韓国のテレビ業界では難しいジャンルだが、機会があれば「LOST」や「24 -TWENTY FOUR-」のように、キャラクターをスリラーで紐解いていくジャンルに挑戦してみたい。

現場にはいつまで:力がある限り。永遠に監督と呼ばれたい。少しお腹がすいて、疲れて、眠い状態が好きだ。そうしてこそ、人生に対して緊張感を持って、何かを作ることができる。

キム・ドフン監督は?:1970年生まれ。延世(ヨンセ)大学英語英文学科。1996年12月MBC入社。代表作「スポットライト」「ロイヤルファミリー」「太陽を抱く月」。受賞経歴 2012年ヒューストン国際映画祭テレビミニシリーズ部門プラチナ賞、2012年上海テレビ祭海外テレビシリーズ部門銀賞、2012年百想芸術大賞作品賞

記者 : イ・ウイン、写真 : ムン・スジ