キム・テヒ、信仰を告白「私の究極的な人生の目標は…」

TVREPORT |

写真=TVレポート DB
忠実なカトリック教徒である女優キム・テヒ(洗礼名:ベルダ)の素直な信仰告白が注目を集めている。

キム・テヒは27日に発行されるフリーペーパー「ソウル週報」“お話の穂コーナー”に「私はカトリック教徒であることが誇らしく、時には恵まれていると思っていた。しかし最近は福音を伝える義務を忘れていたことや、これまであまりにも自己中心的だったことに罪悪感を感じる」という文章を掲載した。

キム・テヒは「言い訳をすると、私は何事も人の話を聞くより自分の心向かう方向に決めて行動するタイプだ。だから他人にも何かを進めることはほとんどない。特に宗教は誰かが説得できる問題ではないと思った」と説明した。

続いて「私は神様の光栄を証明することに真の道具として使われたい。私を通じてより多くの人が神様に出会い、この喜びを彼らも感じてほしい」と願いを語った。

今月6日から3回にわたって信仰告白を連載したキム・テヒは20日、同じ教区の信者と聖書勉強をしている日常を公開し、自分に感動を与えてくれた聖書の句節を紹介した。前回は小学校6年生の時から聖堂に通い始めた理由から、中学生の時には聖霊を体験した話まですべてを公開し、視線を引き付けた。


私はカトリック教徒であることをとても誇らしく思っています。時には私は恵まれた人間だという優越感さえ覚えます。そのため、私がカトリック教徒であることを誇示し、自慢するようになることを恐れています。そして私の足りなさで神様の名を汚すことがないよう気を使いました。そのような理由で周りの人々には神様の話をせず、一人で静かに神様の愛を享受し、楽しみました。

ところが最近は、福音を伝えるという当たり前の義務を忘れていたこと、これまであまりにも自己中心に生きてきたことに対して罪悪感を覚えています。あえて言い訳をすれば、私は何事も人の話を聞くより自分の心が向う方向に決めて行動するタイプです。だから他人にも何かを勧めることはほとんどありません。特に宗教は誰かが説得できる問題ではないと思いました。でもヴィリヨン神父の著書「揺るぎのない信仰」を読んで、これまで宣教活動について私が見せていた懐疑的な態度が間違っていたことに気付きました。

どの教会でも宣教活動をする時には「救い」という言葉を必ず使います。人間が救われて天国に行くためには、神様を信じなければならないという話です。ここでいくつかの簡単な質問をするので、キリスト教的な答えを考えてみましょう。

1. 誰が救われるのか?/人間
2. 誰が救うのか?/イエス・キリスト
3. 何から救われるのか?/罪によって倍加した人間の有限さから。
4. 何に到達するために救われるのか?/より正義で兄弟愛と人間美溢れる社会の中で永遠の命を得るために。

だとすれば、キリスト教という宗教を知っているかどうか、教会に毎週行くのかどうかによって我々は救われるのでしょうか?正直、私はそれは不公平で悔しいことだと思います。なぜなら生まれた時代や地域によってキリスト教に一度も触れることなく死んでしまう人もたくさんいるからです。

しかしこの本によると、教会に通って行っても教会に属していない人も、教会の事を聞いたことがなくても教会に属している人もいると言います。キリスト教を知らなくても、神様の声である「良心」に従って道徳的、人格的に暮らす人々の中には必ずキリスト様が現存しているという話になります。

だからと言って、彼らにキリストを知らせようとする私たちの努力が無意味なことだとは言えません。なぜなら、私たちが本当にキリストを愛するなら、キリストを知らない人にキリストを知らせたくなるのが当然だからです。本当に好きな人とはいいことをたくさん分かち合いたいような気持ちも一緒だと思います。

人類全体を救おうとする神様が取る手段が「教会」です。最後の晩餐を終えた神様は決して「神様のところに行こう」と言わず、「我々が神様のもとに行って、神様と一緒に暮らす」(ヨハン14.23)と言いました。従って、教会は私たちに向けた神様の活動なのです。私たちを抱きしめ、ご自分のような人生を歩かせようとする神様の意志なのです。

前から私は人生の座右の銘を聞かれると「人生の究極的な目標を忘れない」だと答えてきました。その究極的な目標が何かという質問もたくさん受けてきました。私は神様の光栄を証明することに真の道具として使われたいです。私を通じてより多くの人が神様に出会い、私のこの喜びを彼らも感じてほしいです。それこそが私がこれまでもらった愛を返すことにつながり、私を愛してくれる神様のおかげで私が感じているこの喜びを他の人々も感じるようになる、私の究極的な人生の目標だと思います。

記者 : Online News Team