映画「ウンギョ」“ウンギョ”はいない

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人々から尊敬の念を受ける老詩人イ・ジョギョ(パク・ヘイル)は、自分の世話をする弟子ソ・ジウ(キム・ムヨル)と共に、自宅の庭園で昼寝をしている少女ウンギョ(キム・ゴウン)を見つける。そしてソ・ジウが、作品の執筆に専念する時間が必要と提案し、ウンギョはイ・ジョギョの家で掃除のアルバイトを始めることになる。しかし、イ・ジョギョは生き生きとしたウンギョに対して次第に特別な感情を抱くようになり、文学的な才能に限界を感じるソ・ジウは、なかなか新作を書くことができず、ウンギョを通して若さを求めるイ・ジョギョから異様な空気を感じ取る。そして、ついにイ・ジョギョの書斎で“ウンギョ”というタイトルの原稿を見つける。


【鑑賞指数】

小さなイ・ジョギョに手を出したら大変なことになりますよ…6/10点

欲望とは、それを抱くことを許された者だけのためにあるのか。老人は欲望を抱くことが許されているのか。許されない欲望を抱くことは醜いことであるのか。作家パク・ボムシンの原作小説が投げかける数々の問いかけをそのまま受け継いだ、映画「ウンギョ」の疑問符はとても大きい。それは映画が大きく主張しているためではなく、映画が欲しがる答えが極めて挑発的なものであるからだ。

雨が降る夜、ウンギョが塗れた小鳥のような姿でイ・ジョギョの家を訪れ、イ・ジョギョはそんなウンギョの制服をドライヤーで乾かす。そしてそのときのイ・ジョギョの顔は、優しいおじいさん以外の何者でもない。しかし、そんなイ・ジョギョに話しかけるウンギョの姿を撮るカメラは、彼女の足や太もも、唇にフォーカスを合わせる。それは、イ・ジョギョがウンギョとただ人間的な共感にとどまらず、彼女を通して若かった自分を蘇らせようとし、そんなイ・ジョギョを見つめるソ・ジウの疑惑をゆっくりと観客たちに持たそうとするためだ。

しかし、明確な問いかけに対しても、映画は答えることをためらう。欲望の主体であるイ・ジョギョは、ウンギョに心を揺らされているだけで、極めて受動的で守りの姿勢のみを見せる。そんな師匠の本音を読み取ったソ・ジウもウンギョに対して怒るばかりで、それ以上の行動には出ない。いつも彼らのもとを訪れるのはウンギョであり、二人の心境の変化に気づいて慰めるのもウンギョの役割である。問題は、そんなウンギョが女子高生であることではなく、映画がウンギョに関して女子高生であること意外に説明しようとしないことだ。

キム・ゴウンという代替不可能に見える女優の発見で、映画は輝くことができたが、それでも原作と同じく、ウンギョは若い女性なら誰でも構わないキャラクターとして平易に描かれている。学校にいるとき、掃除をするとき、自分の身体を露出するときのウンギョが一人の人物として繋がらず、それは彼女に神秘的な雰囲気を持たせるわけでもない。むしろ、ウンギョは女性のイメージのかけらを集めて作られた虚像であると、間接的に言っているようだ。

そして、存在しない女性であるウンギョを通してようやく湧き上がるイ・ジョギョの欲望は、結局、高貴さから抜け出すことができなかったため、映画は投げかけた問いに対し正面から向き合うことに失敗する。要するに、イ・ジョギョの欲望に映画が自ら条件を付けることで、映画はその欲望をもう一度“体面”という箱の中に閉じ込めたことになる。質問者さえ確信できない答えなのに、それを観客が代わりに答える必要があるだろうか。それを考える前に、問いかけさえも魅惑的に描かれなかった印象を受ける。

映画「ウンギョ」は韓国で4月26日から公開されている。

記者 : ユン・ヒソン、翻訳 : ナ・ウンジョン