ポン・ジュノ監督「ネタバレ? 今は話すことができる」

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ポン・ジュノ監督は、完璧主義者で細部まで気にする“ポンテール(ディテールにこだわるポン監督)”というあだ名から誤解されているようだが、実際は温かくて面白く、とても力強い人だ。カンヌで会ったソン・ガンホが親指を立てて、映画「母なる証明」について賞賛したという話をした時や、試写会の会場でピョン・ヒボンが「ポン監督、何を心配しているの!」と、特有の力強い声で肩を叩いた真似をした時、また、女優キム・ヘジャの少女のような話し方を真似る時、あたかも彼は俳優の魂が乗り移ったように面白く話をした。先週末、公開10日目にして200万人を動員した映画「母なる証明」について話したときも「公開されたので、もう“ネタバレ”を気にせずに話してもいいでしょ」と、同席した広報担当者にさらりと聞いた。公開2週目での監督のインタビューは、映画を観た人へのアフターサービスと言っても良いだろう。

―既に200万人以上が「母なる証明」を鑑賞した。自身の映画だとしても、公開前と後では実感が違うのではないだろうか。

ポン・ジュノ:マスコミのレビューやネットユーザーの書き込みをよく読みます。最近はよく「すべてはドジュン(ウォンビン)の復讐劇だ」などと書き込まれています。実際、2008年1月にシナリオを書き、このような話をノートにメモしたことがありました。もちろんこのコンセプトのためにシナリオを書き直したりはしませんでしたが、暗い目で見るとそのような解釈も可能かと思いました。でもこの方の文章を読むと、ドジュンが本当にものすごい計画を立てていたように書かれています(笑)

―「ユージュアル・サスペクツ」のカイザー・ソゼを夢見るドジュン?

ポン・ジュノ:はは。5歳以降、20年余り馬鹿なふりをしてきたんですね。そういう設定ではないのですが、読んでいる立場では“母親が息子を統制しようとしたが失敗し、結局は子供が母親を統制した”そんな話という風にも見て取ることができますよね。私もシナリオを書きながら予想したのですが、そういう反応が出てくるととても面白いですね。もう封切りしたので、このような話をしても良いでしょう? 改めてお話しします。キム・ヘジャさんは“鬼”なのです。はは。

―最後の高速バスでのダンスは、ストーリーとの繋がりがあるが、最初の場面で一人でダンスするシーンは関係ない。

ポン・ジュノ:踊る場面でスタートさせると、それ以降が変わるように思いまして。母親が急に踊り始めた瞬間が一番爽快ですよね。宣戦布告のようなものです。この映画はちょっと変わっています。カメラが近寄るのではなく、カメラに向かってキム・ヘジャさんが来る。“これはキム・ヘジャの映画だ”というように。


「“ポンテール”というあだ名にはうんざりしている」

―ダンスはとても異様に見えた(笑)

ポン・ジュノ:そのシーンで笑う観客もいました。キム・ヘジャさんには「高速バスでのダンスを外で踊ったところを想像してください」と注文しました。しかしそのダンスを見たことがないとおっしゃったので、観光バスに一緒に乗って、おばさんたちが踊るところを見せたりもしました。作家や私、制作陣も一緒に乗り、踊りを踊ったのですが、おばさんたちの手が若い男性スタッフのTシャツの中に入り込んでいました(笑) 撮影した時も一人で踊ると恥ずかしいとおっしゃるので、カメラ近くのスタッフも一緒に踊りました。踊りながら目を隠す動作は練習の時に偶然に見つけたのですが、それは絶対に入れようと提案しました。

―母親が胸元に手を入れる場面は印象的だ。

ポン・ジュノ:母親の手が刀で切られそうになるシーンで、クライマックスで自分の手を見る場面ですね。手は罪と繋がっており、手を隠すことは、罪を隠すということです。元々シナリオにはなかった設定ですが、時間が残り色々なカットを撮影していた時に、キム・ヘジャさんに「手を入れてみてください」と注文しました。妙な表情で入れていました。その感じが良くて、タイトルのショットに選びました。

―キム・ヘジャという女優を初めて見た時を覚えていますか。

ポン・ジュノ:私が生まれる前から演技をしていた方だから、TVをつけるといつも出ていた記憶があります。特別にその存在を気にしたのは70年代の後半に見たドラマ「あなた」でした。典型的な良妻賢母の役で、チェ・ブラムさんが旦那役で出ていて、劇中の名前がボン課長でした。キム・ヘジャさんはボンさんの妻と言われていましたね(笑)

―キム・ヘジャは私たちの幼いころから活躍していた女優で、長い間国民のお母さん的な存在だった。多くの人に刻印された頑固なイメージから抜け出すということは簡単ではないと思う。

ポン・ジュノ:嫌がられたらどうしようかなとも思っていましたが、なぜか気に入って頂けるのではないか、という漠然とした考えも持っていました。一生涯“国民のお母さん”と言われるのにはうんざりしているのではないかと。実際、女優のムン・グニョンさんも“国民の妹”というタイトルをどんなに嫌っているだろうか。私も“ポンテール”というニックネームにはうんざりしています。実際のところ、誤解でもありますし。私もムン・グニョンさんも、そしてキム・ヘジャさんもそう思っているのではないでしょうか。


「キム・ヘジャさんの力に左右された部分が多い」

―この映画は始めからキム・ヘジャを念頭に置いてシナリオを書いたのだろうか。

ポン・ジュノ:もちろんそうだ。順序としては、キム・ヘジャさんと一緒に仕事をしたくて、もし撮影するのなら気の狂った女性の映画がいいと思っていました。どのようなシナリオが良いのかと考えた末、思いついた話が“ブレーキが壊れたお母さん”というものでした。韓国では“キム・ヘジャ=お母さん”ですが、逆に母性についての破格的な想像に結びつきました。2004年に初めてお会いした時、キム・ヘジャさんに「印象が少し強い映画を一緒にしたい」と提案しました。2005年にシナリオを差し上げたのですが、とても気に入ってもらえたようです。そして2008年3月にA4用紙で74ページにもなるシナリオをお渡ししました。キム・ヘジャさんがこのシナリオを読み、気に入らないとしたらこの映画の撮影はやめよう、と思いました。「母なる証明」は、「キム・ヘジャさんを見て企画したので、彼女がいなかったら成り立たない映画だ」と言いました。

―「母なる証明」の撮影の前に終了したドラマ「母さんに角が生えた」では、良妻賢母の象徴的人物だったキム・ヘジャが、休暇を宣言し、しばらく家を出たことだけで人々は破格的だと言っていましたね。

ポン・ジュノ:若くても頑固で心を開かない俳優は多いのですが、キム・ヘジャさんはモダンで開かれている女優です。とんでもなく果敢な試みを気に入ってくださいました。“強い農薬を飲むと死んでしまうが、弱い農薬だと死なない”という話や、“その店のジャージャー麺がおいしくなかったのでチャンポンを食べた”という感じで、何でもないかのように演技してみてくださいとお願いしたところ、そのようにしてくださいました。モニターをご覧になって、とても喜んでいらっしゃいました。セットでの撮影の時も、「普通の映画のクライマックスとは違ったようにしてみたい」とお願いしたのですが、快くやってくださいました。たまに、自分が思ってもいなかったことをやってくださると、まるで大物を釣ったかのような気分になりました。

―だから、大物を沢山釣ったのだろうか。

ポン・ジュノ:「グエムル-漢江の怪物-」が、まるで本物のように思えたのは、CGのクオリティではなく、その怪物を見た時のソン・ガンホの表情のおかげだと思います。シナリオ上印象の弱いストーリーや、どうしても区切れ区切れになってしまう部分がある時、瞬間的な本能でその隙間を結ぶことができるのが演技力のある俳優なのだが、「母なる証明」の“呪われたこめかみ”のような場合も同様に、内容自体がちょっとやらせっぽくて理解に悩む部分があります。しかし結果的には観客がそれを受け止めることができるのは、俳優の説得力のある演技のおかげです。もしくは、キム・ヘジャさんという女優が持っているアイコン的な立場のおかげかもしれません。シナリオにはない、“母親の気持ち”が表れる場面があります。シンナー遊びをしていた高校生を取り調べていた時、お母さんが入ってきてライターの火をかざす場面を見て、顔を焼こうとしたと思う方もいらっしゃるようですが、その子の歯が溶けていないかを見ようとしたのだと解釈される観客もいました。キム・ヘジャさんでなければ、その両方の解釈はできなかったと思います。


「母親とセックス、二つのイメージの衝突が必要だった」

―ポン監督のお母さんは、どのような人ですか。

ポン・ジュノ:母方の祖父が長女を連れて、朝鮮戦争の時に北に行きました。娘たちにとって、父親とは強い存在ですが、思春期から父親の元を離れ、兄弟だけで南側で暮らしていたためか、私の母親は不安や心配を沢山する人でした。そのため、起こってもいないことについて心配する母親に、たくさんの嘘をつきました。母親を安心させようとしてついた嘘です。「ファニーとアレクサンデル」のように、嘘は創作の基本だったわけです(笑)

―「母なる証明」で、母親と子供は交差し、結局はお互いに似ていくという感じを受けた。母親の暴走した行動も、一方的に息子を守るためのものではなく、あたかも自身を守るためのものといった感じで。この奇妙な母子関係に対し、多くの方が様々に解釈している。

ポン・ジュノ:私もその点を考えながら撮影しました。映画の中の母親は、キム・ヘジャさん、私の母親、子供の母親の姿をミックスしました。父、母、息子、娘。この4構成が作る関係のうち、母子関係が一番強い組み合せです。一つの体で作られ分離した異性関係、一つ屋根の下に住み一緒に眠る年をとった女性と若い男性、一番近い関係ではあるものの、お互い踏み込むことのできないタブーな関係。劇中では「母親と子供」という台詞もあり、さらには「寝るだけなのか」という露骨的な台詞も出てきます。

―ドジュン(ウォンビン)の後姿がジンテ(チン・グ)に変わり、帰宅した母親をジンテが強圧的な言動で追い詰めるシーンを見ていると、何らかの不快な感情が徐々に水面上に浮かび上がってきたようだ。

ポン・ジュノ:とある年配女性から、「母親とジンテ、寝たのでしょ?」と質問されたことがありました(笑) パソコンの前に座るドジュンがジンテに代わる場面では、寝ることの出来ない若い男性から、寝ることの出来る若い男性にかわるという意味にとることができます。ジンテとミナがセックスする場面を見た後だから、この感じがさらに強まります。そうしてこの映画ではどんどん母親を女性として認識させるのです。始めはドジュンが母親と一つのベッドに横になり、胸をさわる。その後母親がジンテのセックスを盗み見し、女子高生の生理用ナプキンの話が出て、結局事件に関係あると思われる老人がいる小屋に行きます。この話の中では、ストーリーから離れているようにも見えますが、これも一つの大きな流れなのです。その後、母親が老人の上に乗り、まるでセックスの体位のように座る。そして、クライマックスで顔に血しぶきを浴び、血に染まった床を拭く。

―それは、私たちがキム・ヘジャという人に尋ねてこなかった、いや、見たことない面だ。

ポン・ジュノ:すべてのお母さんに聞かなかったことです、母親とセックスを分離させようとするから。そのためか、ジンテとミナのセックスを母親が後ろから見るシーンを撮影した時、妙な快感を覚えました。胸が出ていなかったら15歳観覧可になるところだったのに(笑) そこではある程度の赤裸々感、露骨性が必要でした。結局、キム・ヘジャさん本人がセックスシーンを撮影してもいないのに、目撃しただけでも新鮮に感じさせられますよね。私たちは無意識のうちに母親という存在を、キム・ヘジャという人をセックスと隔離させようとしていたのです。結局は、息子は父親とのセックスで生まれたのですから。それがとても皮肉なことだということを見せたいと思ったのです。そのためにこのような衝突が必要だと考えました。私たちは認めたくはありませんが、明らかに存在する母親の姿との衝突を。


「全国のロケーションには、悲運のアルバイトがいた」

―「母なる証明」では、一つのシーンも抜けてはならない、全てが編みこまれた感じだ。ユーモアな場面も、前作に比べてあえて排除されたような感じだ。

ポン・ジュノ:ネジを締め付けたという考えはなかったのですが、粗雑になるのは嫌でした。単純化についての悩みや執着はありました。キム・ヘジャという一人の人物にフォーカスを合わせた映画で、人物関係はとてもシンプルです。もちろん構成的には完結しているものの、人物や過去の出来事は説明せず、背景が分からない部分がとても多いです。説明しないことで構成はシンプルですが、逆に想像力を刺激できればと考えていました。

―「殺人の追憶」や「グエムル-漢江の怪物-」がストーリーや象徴の作品だとしたら、「母なる証明」はイメージを説明する作品だ。ミニマリズムとでも言うのだろうか。明暗のコントラスト、クローズアップの配置など、教科書では説明できないものを端的なイメージで説明するように。

ポン・ジュノ:決定的な事件が集約しているこの廃家だけでも、外部でも内部でも構造をさらに複雑に制作できたが、あえて単純に作りました。殺人が起きる瞬間、この中でうずくまっていた一つの視線のために、全ての事件が裏返るのですが、その瞬間を最大限に単純化させたかったのです。真っ黒な空に、雲が一つ浮かんでいるような。結局、レイアウトを最小限に抑え、後半にいくほど単純にしました。最初の火葬場での修羅場や、現場検証の場面は比較的レイアウトが多い場面です。でも母親が孤立し、一人で奔走する後半からは、どんどん単純になっていきます。ショットの数を減らし、少ないショットの中で一つ一つを強くする方法をとりました。

―レイアウトがあったと言った「母なる証明」の現場検証シーンはやはり、「殺人の追憶」とは確実に異なるようだ。ほとんどワンシーン、ワンカットでソン・ガンホを撮ったカメラの躍動性に比べ、「母なる証明」は固定されたショットが多く、大きな動きはありません。ホン・ギョンピョ撮影監督の既存のスタイルからは、少し意外に思える。

ポン・ジュノ:ホン・ギョンピョ監督と言えば、「ブラザーフッド」などの作品が印象的ですが、静かで鮮烈なイメージも強い人です。特に、鋭いカラーを持っているため、「母なる証明」とよく合っていると思います。キム・ヒョング監督が父親の映画を撮る巨匠のタッチだとしたら、ホン・ギョンピョ監督は繊細な母親の映画のようだと、私なりに漠然とした分類があるのです。

―「母なる証明」に出てくる村は、全国で撮影して一つの新しい村に作り上げたと聞いた。

ポン・ジュノ:車酔いもしますし、長い間車に乗るのは嫌だから、本当はそうしたくはありませんでした(笑) でも、これだというイメージを探したら、全国を撮影するはめになってしまいました。「殺人の追憶」は80年代、華城という具体的な次代と空間があり、「グエムル-漢江の怪物-」は漢江が舞台でキャラクターもありましたが、この映画は空間自体がキャラクター化されることを避けようと思い撮影しました。人物だけ残るようにと。

―そのようなロケーションはさらに難しそうだ。

ポン・ジュノ:4月から9月まで、半年かけて探し回りました。ウォンビンが放尿する壁は、ちょうど理想的な壁を探すことができてとても嬉しかったのですが、撮影2週前に黄色いペンキを塗られてしまいました。結局、それと同じような壁を探すために雇ったアルバイトが、一週間でCD一枚ずつ送ってきました。その“悲運のアルバイト”が全国全ての壁の前でドジュンのように放尿するポーズで、後姿を撮影してくれたのです。私は未だにその人たちの顔を知りません(笑) 結局、その壁は木のセットで作り、一部だけを撮影し、残りはCGで制作しました。


「『スノーピアサー』はとてもダイナミックで野蛮な映画」

―カンヌ映画祭で体感した反応はどのようなものだったのだろうか。

ポン・ジュノ:全体的に良い評価を頂き幸いです。タランティーノが映画を観たそうですが、あの方の反応はとても気になります。でも“何分かの起立と拍手”のような記事はとても敏感に反応します。ダイバーの記録でもあるまいし、計量化するのはちょっとおかしいですよね。映画祭での反応というのは、ちょっとあてにならないようです。まさか映画祭で石を投げることはないですよね(笑) フランスで公開される秋には、外国での本当の反応が分かると思います。

―ポン・ジュノという監督の歩みを見た時、ジャンル的な取り組みではなく、韓国社会で多くのモチーフを得たようです。

ポン・ジュノ:同世代の監督と比べて私はジャンルに対する興味があまり無いほうです。ジャンルの法則を壊すのに快感を感じるようです。「母なる証明」もスリラー、ミステリーという面もありますが、実際私はただ母親を撮りたいと思っただけです。韓国社会といったことまではよく分かりませんが、人間についての映画を撮りたいと思い、その人間がいつも韓国社会の人間だったということです。「スノーピアサー」では、そこから初めて抜け出しました。

―次回作となる「スノーピアサー」は、社会や時代、または空間的なことを飛び越えている。

ポン・ジュノ:その点がとても興奮します。地球全体が凍っている中、汽車が走っていて、その中の人は暗い葛藤から抜け出す。全てのことが消え、ただ“人間の条件”だけが残るのです。とてもダイナミックな映画になると思います。

―孤立した汽車はまるで地下の空間のようだ。

ポン・ジュノ:そうですね。個人的に閉鎖された空間が好きで、角のある空間のコンテを考えるとき、性的な興奮を感じます(笑) 「スノーピアサー」の汽車のような場所は、水を得た魚のように飛び跳ねて遊ぶことが出来るようです。来月からそろそろシナリオを書き始めるのですが、1年後にどのような話しになるのかまだ分かりません。もちろんこの数年間温めてきたアイデア、人物、全体の構造、短編的な場面のようなものは既に私のノートブックにあるのですが、宝の持ち腐れという単語があるように、どのように整理するか悩んでいます。

―5年前、既に高速バスで踊る「母なる証明」のラストシーンが描かれていたように、「スノーピアサー」でも既にイメージが出来上がっているのだろうか。そうだとしたら、特別に教えてもらうことはできないか。

ポン・ジュノ:具体的に描くのは大変ですが、汽車の持つ両面性を見せるシーンになります。汽車は産業化を象徴する恐ろしい鉄の固まりです。荒々しく乱暴に突進する物体だが、一方では汽車の中から窓の外を見ると、ロマンチックな気分にもなりますよね。その相反した感じとイメージが交差したり、混ざる瞬間を思い浮かべています。野望と叙情が共存するようなシーンです。

―「グエムル-漢江の怪物-」が男性的、「母なる証明」が女性的な映画だとすれば、「スノーピアサー」はどちらに近いのでしょうか。

ポン・ジュノ:男性、女性を超え、とても野蛮な映画になりそうです。第二次世界大戦当時の、アウシュビッツでロシアに搬送された一人のユダヤ人の手記を読んだことがあります。座ることも横になることもできない、もやしのような汽車。アート・スピーゲルマンの「マウス」でも扱われていますが、「スノーピアサー」では“人間は果たして何なのか”という質問を投げかけたいと思います。

記者 : ペク・ウンハ、編集:イ・ジヘ