ユ・アイン「僕は自分の人生を憎み、愛してる」

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ユ・アインは時々ジェームズ・ディーンについて話す。彼は青春に対して憧れを持っている。“青春の顔”として記憶されたい欲望がある。でも、私(記者)はレオナルド・ディカプリオを思い浮かべる。最も美しい瞬間に立ち止まって、不滅の存在になったジェームズ・ディーンと違い、レオナルド・ディカプリオは眩しかった青春と自分に与えられたイメージに対して激しく抵抗する時間を経て、今は様々な表情で信頼を与える現在進行形の俳優になった。私は前者より後者になることの方が、はるかに難しいと考えている。最近、ユ・アインの顔からジェームズ・ディンよりもレオナルド・ディカプリオの顔がより強く見えるのはそのためだ。ユ・アインは依然として成長している。何かに縛られず、とどまらず、そうやって流れていく。だが、驚くべきことに、彼が離れた場所にはいつもユ・アインが残る。それは決して簡単なことではない。

―近いうちに、映画館とテレビを通じて“財閥3世ユ・アイン”(映画「ベテラン」)と“悲運の王子ユ・アイン”(映画「王の運命―歴史を変えた八日間―」)と“豪放なイ・バンウォンに扮したユ・アイン”(SBSドラマ「六龍が飛ぶ」)が同時に観客と会う。

ユ・アイン:小細工をしたらばれると思った(笑) それで小細工は止めようと考えながら「六龍が飛ぶ」を撮影している。同時に3人のキャラクターが出るから、多くの人に比べられてしまうだろう。新しいものを試みるべきかもしれないという気もする。

―興味深くも、3作品とも“父親と息子の物語”として読むことができる。父親に嫌われたくなくて役員会議にオムツをつけて入るチョ・テオ、父親の愛情に飢えて求めるが結局は米びつに閉じ込められた思悼世子(セジャ:王の跡継ぎ)、「六龍が飛ぶ」で演じたイ・バンウォンは歴史的に王位の座をめぐって父親と様々な葛藤があった人物だ。あえてエディプスコンプレックス(男子が母親に性愛感情をいだき、父親に嫉妬する無意識の葛藤感情)まで話さなくても、父子の間は生涯のミステリーのような気がする。

ユ・アイン:息子にとって父親は認められたい対象であると同時に、乗り越えたい対象だ。子供だけじゃなく、父親も子供に認められたい部分があると思う。イ・ソン(思悼)とイ・サン(正祖)の物語のように、子供が自分を乗り越えそうになったらコンプレックスを感じる。僕はまだ子供がいないから詳しくは分からないが、十分にそんなこともある気がする。男は非常に強い社会性を持った動物だからだ。食べ物を捕獲して家に持って帰らなければならない存在だ。そんな強い社会性を持った存在たちが、お互いを理解しようとして、乗り越えようとして、コンプレックスも感じることは自然な気がする。

―本能的にそんな側面が強いと思っているのか、それとも社会がそうさせていると思っているのか?

ユ・アイン:本能と社会性を分離することは果たして意味があるかな。以前は分離して考えた。人間が持つ純粋性、本性、気質、天罰など、純粋に近い様々なものと社会的で世俗的なものを分離して考えた。でも、今は分離できない何かだと思っている。人というネットワーク、社会というシステムを抜け出すことができるかという疑問が生じたからだ。以前の僕は完全に世界に背中を向けたふりをしたり、「世の中は世の中で、俗世は俗世で、僕は僕だ!」と言うかのように行動した時期もあった(笑)

―今「時期もあった」と過去形で話したが。

ユ・アイン:あった。今も「ある瞬間、僕は(すべてのものから)完全に分離できる!」という考えがある程度はある。それこそ、根拠のない自信だが、そんな一つの薄っぺらな考えを捨てずに持っている。

―その時期のユ・アインは、かなり尖っているように見えただろう。

ユ・アイン:とても尖っていた。人より特に尖っていたと思う。

―俳優にとってタブーとされた自分の考えそのものを、その時その時に表出することもあった。

ユ・アイン:それはイメージだったと思う。言いたいことをはっきり言ったからではなく、僕のあるイメージでそう見えたのかもしれない。その時は意識的にもう少し刺々しくなったり、尖って見せる部分があった。自分のイメージについて自分なりの認知があって、それを作ろうとする傾向がある程度は反映された部分もあった。どう聞こえるかしれないが、「イメージを作ることができる」ということ、それを「戦略的に行うことができることが特権」ということを、その瞬間にはとてもよく知っていた気がする。

―今はどうなのか?

ユ・アイン:もう特権ではない。ハハハ。今はそんなことをやるためにはより上手で、スムーズにやらなければならないからだ。何より、自分がこれ以上は目立とうとしない気がする。僕のことをよく知っているじゃないか。以前は僕をもう少し目立たせたくて仕方がない、ある意味“関心種子(注目されたい人)”のような面もあったことを。

―実は、2ヶ月前のインタビューで話した“関心種子”について聞きたかった。むしろ、今はその反対だと思ったからだ。ここ数ヶ月間、ユ・アインは自ら自分を目立たせようとしなくても、すべてのメディアが先にユ・アインを題材に取り出して、ユ・アインについて話して、ユ・アインを目立たせている。

ユ・アイン:結局は何が本物で、何が本物じゃなくて、何が僕のもので、何が僕のものではないかに対する判断が自分の中で必要だと思う。僕の中には何も考えず思いっきり遊びたいという考えも、逃げたいという考えもある。それで、外部によって決められる僕と、僕の中心から噴出される自分の間のバランスを取ろうとしている。2人の間の接点を探して、今の僕の姿勢を決めているのだろう。とにかく、上手く区分することが重要な気がする。

―自分が上手く区分していると思う?

ユ・アイン:ハハハ。分からない。ただ、僕の話をしても、他の世間話のようにただ流すものもあったりする。

―今の状況を意外と淡々と受け入れているように見える。

ユ・アイン:実は考えたことがある。記者は俳優にとても大きな影響を与える人だ。記者は大衆が「この俳優はOOだ」と定めるようにする力を持っていると考えるからだ。それはとても大きなもので、影響力だ。でも、今のシステムは俳優が自分のカラーを見せる間もなく、絶えず上塗りされて、絶えずスクロールされている。昨日、今日、明日がすべて違う人物になれる構造の中に入ってきているわけだ。こんなメディアと俳優の共存関係は両面性があると思う。どんなことにも縛られないというメリットはある。例えば、「良くない記事が出たの?まあ、大丈夫!明日、スクロールの下にあるはずだから」と思えることだ(笑) 一方、3年前の記事を持ってきて悪用したり、記憶からすでに薄くなった何かを、今の僕の姿に加えようとすることもある。結局、このシステムを把握しなければならないと思う。もちろん、それはとても難しいことだ。「僕をあまり見せないことが自分も傷つかず、僕を見てくれる観客の視線も傷つけない最善の方法なのか?」という考えもする。「それは本当に合っている?」と考える時もある。

―リュ・スンワン監督は「ベテラン」の興行について「恐ろしい」と表現した。ユ・アインはどうなのか?

ユ・アイン:「恐ろしい」という言葉には2つの意味があると思う。「恐ろしい」ことがどんなものなのか知っているから「恐ろしい」と言うことと、それを知らずに「恐ろしい」と言うことだ。リュ・スンワン監督は前者だ。その数字の意味や価値、副作用、それがどうやって出てきた数字なのかをよく知っているから「恐ろしい」と仰ったのだろう。でも、僕は知っている部分も、知らない部分もある。だから、実はすごく恐ろしくはない(笑)

―イ・ジュニョク監督は思悼世子について“宿命”を持って生まれた人物だと話した。俳優ユ・アインも人生の中で、これは“避けられない運命”と感じた瞬間があるのか?

ユ・アイン:“避けられない運命”ということは“宿命”じゃないか。えーと、とても難しい質問だ。よくなかった瞬間が浮び上がる(笑) さあ、これだと特定して話すことは難しい気がする。

―それでは、俳優になったことは“宿命”というより“運命”だろう?

ユ・アイン:いや、“宿命”だと思う。意味は……意味はノーコメントにしたらだめかな。理由が強烈すぎるからだ(笑)

―相当な理由であるようだ(笑)「王の運命-歴史を変えた八日間-」の撮影現場はどうだったのか?とても熱い雰囲気が想像されるが。

ユ・アイン:撮影現場で僕のやり方は自然になるまでただ遠くに離れていることだ。僕の人生で一番難しいことは、撮影現場で知らない人たちと作業することだ。実は、僕は家に一人でこもって絵を描くべきタイプだ。性格的にとても閉鎖的で人見知りも激しいのに、俳優の仕事は誰かと一緒に作業しなければならない。絶対に一人でやることはない。一人で上手くできることもない。それなのに、社会生活がどんなものなのかも知らない幼い頃に、この世界に現場の最年少として入ってステップを踏んできたので、歪んだ部分がある。正直、今の自分の姿は可愛いと言えない。

―どんな面でそう思うのか?

ユ・アイン:例えば、礼儀というものはとても重要だ。とても重要だが、その中で自然になりたいという気持ちがある。持っていない気持ちや持っていない尊敬を表現したくない。もちろん、ソン・ガンホ先輩はとても尊敬している。ファン・ジョンミン先輩、キム・ユンソク先輩、多くの監督は本当に僕の師匠で、尊敬する方々だ。でも、それはとても自然に作られたものだ。たまに、自然ではないことを強要される時がある。無条件に礼儀正しく行動しなければならず、(大人に)学んだことが何もないにも関わらず、何かを学んだと話さなければならないような空気がある(一同笑) もちろん、学んだことはあるはずだ。常に何かを学んでいる。キム・ユンソク先輩が「ワンドゥギ」のインタビューの時、良き指導者について「本当にクサい人間を見た時、とてつもないことを学んだ」と話したのが印象的だった。ある人を見て「僕は絶対にこんなことはしない」と感じることも学びの一種なのだ。人間は結局、自ら心を開いておけば、どんなことからも学べると思う。

―ユ・アインは学ぶことを渇望する人間なのか?

ユン・アイン:実は絶えず課題を行って、絶えず学んで、絶えず成長していくことこそが、僕の人生の最も本質的な目標だ。“学ぶ人として生きること”こそ、僕の大きな課題だ。でも、“東方礼儀之国”というものが作っておいた枠の中で、年齢という制約の中で、不自然になって失ってしまうものも多い気がする。“人間対人間”の出会いにおいて、限界を作ってしまうということだ。今までは誰にとっても目障りにならないように、できるだけ自分を安全網の中に入れて仕事をしてきた。そのためか、ある瞬間、モニターから本当に遠く離れている自分自身を発見した。今もそうだ。撮影現場で僕は、モニターからとても遠いところに立っている。

―何かに対して規定することを警戒しているようだが。息苦しくないのか?

ユ・アイン:だからと言って、一人が好きと言うわけではない。主演俳優としてやるべきことがある。例えば、後輩や新人俳優がいたら励ましながら引っ張って行ったり、僕が必要な瞬間があり、言わなければならない時はきちんと言う。それを上手にしているようなふりをしている。でも、とてもぎこちないことは……。

―どうしようもない問題だ(笑)

ユ・アイン:ハハハ。そうだ。例えばタバコのことを話そう。この世が変わったと言っても、僕たちが学んだ礼儀というものがある。「先輩、タバコ吸っても宜しいでしょうか」と聞くと、クールな先輩はこう言う「そんなの聞かなくてもいいよ、吸いな」と言ってくれる。だけど、いざタバコを吸うと「本当にタバコ吸うのか」と思うかもしれない(笑) クールなふりをするこの世にうんざりしているが、他人とぶつかり合いながら本当にクールな人になりたい。僕は本物のクールガイだ。ハハハ。クールではない部分は、家で一人で頭を抱える。

―ユ・アインが定義する“クールさ”は何か?

ユ・アイン:自然に、率直に、または柔軟に先入観なしで行動すること。

―あなたは自ら先入観がない人だと思っているのか?

ユ・アイン:いや……僕は先入観が強い人だ。

―何か矛盾する部分があるようだ。

ユ・アイン:別の見方をすれば、クールになりたいという意志のようなものだ。僕が持った先入観について反対給付を熾烈に考える。「お前はどうして僕を簡単に判断するんだ?お前も簡単に判断されたくないんだろう!」という共感を作りながら相手に話す方だ。それは、自分自身にも同じだ。例えば、芸能人の噂を見ながら騒いで笑ったり(笑) 現場で誰かを見て、すぐに判断する自分を発見したりする。外部で判断しようとする自分の悪い点。そこに心酔すると、そのようなことを通じて醜い自尊感を作り、歪んだ自信感を持つようになる。結局、冷徹に自分を振り返りつつ、前に進まなければならない。自分に矢を向けなければならない。「僕は完璧に純潔です」がクールではない。この過程をすべて経てこそ、本当にクールな人になれるのだと思う。それをやろうとしている。今の僕は本物のクールガイとは言えない。

(次の質問をしようとしたら、突然話を切り出した。)

ユ・アイン:申し訳ないが、このことについてもう少し話したい。クールということは……それは結局、西洋文化から来たものだと思う。韓国の構造と文化の中で、そして私たちが生きているこのシステムの中で、それを受け入れることができるのかを考えさせる。不可能なことなのかもしれない。

―そのような点で、イ・ジュンイク監督との相性を聞きたい。権威主義ではなかったのか?

ユ・アイン:本当に権威のある方だ。自分を縛り付けるものと制限するもの、そして規定するものと気楽にするものたちの中に、閉じこもったまま生きていられる年輪を重ねた経験者になれる多くの条件を持っているにもかかわらず、権威主義ではない理由は、僕みたいに若い人が持っている意志より、はるかに強い爆発的なエネルギーを持っているから可能なことなのかもしれない。爆発的なエネルギーを持っているということは、結局、物事の中心に立っているからでもある。監督を見ていると脂肪がまったく付いていない。僕は身体が考えに反映していると考えている。だから、時々「マハトマ・ガンディー(非暴力・不服従運動を行い、インドをイギリスから独立させた指導者)に似ている」とからかったりする。

―それならば、今のユ・アインの身体はどんなことを反映しているのか?

ユ・アイン:ハハハハ、まさに意志だ。さっきも同僚とこれについて話した。「運動してる?」「運動しないとお尻が垂れる」ハハハ。精神的な弾力を失いたくないように、身体の弾力もできる限り長く維持したい。

―思悼世子への評価は様々だ。誰かは悲劇の主人公に、誰かは狂人に、誰かは理想主義者と解釈している。恐らくユ・アインも、500年後に出演作品を通じて後代に評価されると思うが、どう評されたいのか?

ユ・アイン:まずは肯定的に評価されたい。美術を見ると思潮(ある時代の社会にみられる支配的な思想の傾向)があって、派がある。流行を追う人たちもいて、新しいものを追求する人もいる。アーティストなら、ある程度の抱負を持たなければならないと思う。トレンドを追う人になるのか、トレンドを提示し、主導する人になるのか。うん……この時代の俳優が持つポジションというものがあるが、そのポジションをどう作っていくのかから始めなければならない。ポジションは決められたものだと思うかもしれないが、実は決められたものではない。今は俳優という職業が脚光を浴びているが、ある時代は道化師扱いされたから。ある国では、社会全般的に大きな影響力を持っている。システムの中で有名人として生きていくことについて、その中で俳優として“演技という芸術”を行うことついて、「必ず何かをやる」という意志よりは「幅広く考えている」と話しておきたい。

―生きている時には人々に認められなかったが、後世に再評価されるアーティストたちがいる。フィンセント・ファン・ゴッホ(オランダ出身の画家)のような。でも反対に当時に有名だったが、今は忘れられたアーティストもいる。

ユ・アイン:そうだ。だから正確に言うと“演技=芸術”だと自信を持って言えるように頑張りたい。それは一人でできることではない。僕もそうだ。「僕は芸術家です!」と言うにはまだ恥ずかしいし、自信がない部分もある。少なくとも後輩に自分自身を芸術家であり、他人から堂々と芸術家と呼ばれる前例を作りたい。それがトレンドだと思う。

―ユ・アインイズムなのか?(笑)

ユ・アイン:ハハハハ。そうではない~ハハハハ。素晴らしい先輩方がいると、その方々を見ながら堂々と「僕もアーティストだ」と言う時がある。僕もこれから先輩になる立場だ。慎重に行動しなければならない。自分自身を何と呼ばれるのか、自分の後輩たちが何と呼ばれるのかを、自分が決めると思っている。だから、俳優たちが自分自身を道化師と呼ぶのは喜ばしくない。それが自分の行動の幅を広げてくれるかもしれないし、多くの攻撃から避けられるかもしれないが、本質は芸術だから。大げさに聞えるかもしれないが、この時代が本質から抜け出さないように、それを行う人々が本質から抜け出さないように並行しなければならない。だから、そのような先輩と監督に会うと力が湧く。

―少し大げさな質問になるかもしれないが、ユ・アインはユ・アインの人生を愛しているのか?

ユ・アイン:ハハハ。それさえも2つだ。憎しみ、愛している。本当だ。何かをもっと考え、毎瞬間何を選択するのかが違うだけで、同時に行われる。憎しみ、愛している。大げさかもしれないが、良い質問だった。僕が簡単で、正確に答えられる質問だから。

記者 : チョン・シウ、写真 : ク・ヘジョン、翻訳 : ナ・ウンジョン、チェ・ユンジョン