【スターコラム】チョン・ウソン、江南の女子生徒を魅了した“元祖イケメン” ― Vol.1

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チョン・ウソンという俳優について長い説明は要らないだろう。40代に差し掛かった歳にも変わらず、ハンサムな容姿やすらりとした身体の元祖イケメン、チョン・ウソンがやっとNAVERスターコラムを連載する。生涯初めて悪役を演じた「監視者たち」の公開を控え、忙しい中にも約20年の俳優人生について話してくれた。また、貴重な思い出である昔の写真を探し集め、スターコラムの読者の皆さんに初公開する。20代の爽やかな顔のチョン・ウソン、現在の格好良く洗練されたイケメン中年、チョン・ウソンとは全く異なるイメージのおしゃれな人物が写真の中で明るく笑っている。Vol.1では彼だけの“応答せよ1990年代”と映画界の親友について話し、Vol.2では新しい映画「監視者たち」の撮影エピソードや彼の演技観について語る。読者の皆さんの多くの声援をお願いしたい。/編集者

NAVER スターコラム:チョン・ウソン


1980年代後半、江南(カンナム)の女子高生でチョン・ウソンを知らない人はいなかった?

こんにちは、NAVERスターコラムの読者の皆さん。チョン・ウソンです。映画にはまって過ごしていたら、スクリーンデビューして早20年近い歳月が過ぎました。昔の思い出は僕自身も忘れかけていましたが、今回を機に思い出して文章で書こうとすると、感慨深いものがあります。どうか楽しんで読んでください。

とても偶然な機会で中学3年生の夏休みの頃、西門(ソムン)女子中高付近のハンバーガーショップでアルバイトをしていたのが、僕の人生の一種のターニングポイントになりました。ある日、姉がバイトに応募したのですが、女性だからと採用してくれないと言うのです。それで、一体どんな店かと思って行ってみました。あの時、既に身長が高かったので、店長から歳を聞かれて「浪人生です」と答えました。中学生だと言ったら採用してくれないはずですから。「連絡するよ」と言われましたが、その後僕が採用されました。

そして、初日に行くと、西門女子高校の下校の時間なのに、女子高生たちが一人二人と店の前を通り過ぎるばかりでした。その時、店長がしばらく外へ出てはがっかりとした顔で戻ってきます。どこに行くのか気になって追いかけてみると、僕の働く「メキシカン」からもう少し歩いた大通りのほうにもう一つのハンバーガーショップがありました。

そこのアルバイトの男性がとても格好良く、イケメンでした。当然、女子高生がそこへ行ってしまいました。しかし、僕がメキシカンでアルバイトを始めてから数日後、女子生徒たちが一人ずつ入り始め、しばらく経ってからは、それこそ商売大繁盛でした。大通りのハンバーガーショップの店長が、うちの店に来てため息をついて帰るほどでした。

当時、西門(ソムン)女子中学の子たちは僕と同い年で、僕の年齢を知っている子もいましたが、女子高では浪人生だと噂があり、2種類の女子生徒のファンを抱えるようになったのです。ラブレターもたくさんもらいましたし、僕を見に店からトイレにいく路地にまで女子生徒が集まっていました。そういえば、その周辺の世和(セファ)、同徳(トンドク)女子高校はもちろん、奉天洞(ポンチョンドン)からも来始めました。

メキシカンハンバーガーショップを訪れる女子生徒たちの制服が多様になり、その時僕もそれなりに有名人になりました。店長は喜んで、時給を800ウォンまで上げてくれました。当時、普通のアルバイトの時給が500ウォンでしたが、ボーナスで10万ウォンずつもらったりもしました。ハンバーガーのパテを一気に20~30個ずつ焼いたりしました。社長からボーナスも頻繁に貰い、休みの日には美味しいものもご馳走してもらいました。夏休みが終わってバイトを辞め、中3の冬休みの時にまたやって、高校に入って高1、高2の夏休みにもやりました。その後、学校を辞めてハンバーガーショップとの縁が終わりました。その時、漠然と俳優になりたいと思いました。


中学3年生で身長は184cm、モデルのラブコール

中学3年生の時の身長が184cmでした。だから、浪人生だと言っても信じてもらえました。素敵な容姿の高身長に、痩せた子がアルバイトがしたいと訪れたので、「この子は一体何者?」と思われたようです。当時は道端でモデルのオファーを受けるのはそんなに頻繁にあることではありませんでした。芸能界が放送局のある汝矣島(ヨイド)と忠武路(チュムロ)中心に動く時代でしたが、僕が住んでいた街は外れにあり、芸能関係者が頻繁に訪れる場所でもありませんでした。

とりあえず、学校を辞めてモデルを始めました。モデルセンターに教育生として入り、訓練を受けながら色々なアルバイトをして生活費を稼ぎました。フリーランサーとしてCMモデルもやり、エージェンシーを回って自ら写真を配っていると、モデル側の反応が良かったです。

あるアパレル会社でカタログモデルがレギュラーで必要だからモデルセンターで長期契約をしようと言われました。しかし、それを契約すると俳優活動ができないので、契約が終わるまで待たなければならないという漠然とした心配がありました。

契約をしないと言ったら、ショーでは「チョン・ウソンは使うな」ということになりました。その後ショー関連のイベントは本当に小さなことばかりやらされました。狎鴎亭洞(アックジョンドン)のあるカフェで仕事を手伝っていましたが、「ハンサムな男の子が働いている」と噂が広がり、芸能関係者が僕を見に来ました。後にマネージャーも紹介してもらいましたが、チョン・フンタクさんでした。ちょうど「千年愛~クミホ~」という映画で男性主人公のオーディションをするというので、監督に会って叫んだり転んでみせたりしました。後で知りましたが、イ・ジョンジェさんもそのオーディションを受けたそうです。

イ・ジョンジェとの一生の縁、最初は互いに刺々しかった

「千年愛~クミホ~」の主演に抜擢され、やっとスクリーンデビューする頃に僕がガムのCMを撮影しました。センスミントというガムでした。あの時はCMに新人が一人現れると、そちらに視線が集中する頃でした。関心が高まっている状態で「千年愛~クミホ~」をやり、SBSドラマ「アスファルトの男」に相次いで出演し、それで急に人気を得ました。

その後、SBSの新人賞をジェンジェさんは「砂時計」で、僕は「アスファルトの男」で共同受賞しました。共同受賞だと聞いて、互いに刺々しくしました。なぜ二人が授賞するのか心底気に食わず強がったりして。そんなくせにステージに登壇しては、何ごともないように挨拶して、それぞれ感想を言って席に戻りました。その時、メディアの雰囲気が僕たち二人をライバルに仕立てあげようとしました。しかし、僕らは「あいつがライバル?僕にライバルはいない」という雰囲気でした。

映画「ビート」の撮影が終わる頃でした。キム・ソンス監督から「ちんぴら二人を主人公にした映画を考えているけど、一人はこんな役柄でもう一人はあんな役柄だ。ウソン、君はどちらにする?選んでみなさい」と言われました。それで、その二人のうち一人を選んだら「そう?じゃ、もう一人はイ・ジョンジェでどうかな?」と聞かれ、「いいですよ」と答えました。仲良くなるチャンスはなかったのですが、互いを認めていたので、この機会に仲良くなれると思いました。

ジェンジェさんにとっても難しい選択でした。なぜなら僕は、「ビート」の次の作品なので、キム・ソンス監督と一緒に仕事もしましたし、「ビート」のチームがそのまま「太陽はない」に移ってきたような感じでしたから。ジョンジェさんの場合は、人の家に居候するような感じだったと思います。ジョンジェさんがそんな思いをしないように、ジョンジェさんを配慮するために先に近づきました。その時は自身のものをケアするよりは、ジョンジェさんが演じたホンギ役に関してアイデアを思いつくとメモしてあげるなどしました。そうしたら、ジョンジェさんは僕のコメントに「いいね」と相槌を打ったり興味を示してくれました。

まだ幼かった頃だったので、気軽に友達になりました。撮影が早く終われば「一杯飲みますか?」と言って、仲良くなりました。最初は互いに口数の少ない性格で、「飲みましょう、お酒」このようにあんまり話もせずお酒だけ飲んだりして、互いに酔ってきたら少しずつ話す程度でした。

朝、焼酎8本を飲んで海に溺れて死にかけたジョンジェさん!

映画の後半に海辺で撮るシーンがありましたが、徹夜の撮影が終わると酔い覚ましのスープを飲んでしばらく休んでからまた撮影するといった日常の繰り返しでした。海辺で最後のロケ撮影をしていましたが、「朝ご飯を食べましょう」ということになって、焼酎を一緒に飲むことになりました。二人で8本くらい飲んだかな。

その海辺にジェットスキーがありましたが、二人で酔っ払ってジェットスキーを一生懸命海に移して代わりばんこに乗って遊びました。今回は誰の番かじゃんけんで決めて、ジョンジェさんが何回目だか分かりませんが、遠くまで行きましたが船が転覆しました。酔っぱらっている状況で「あの人どうなるの?」と皆焦っているばかりでした。

僕が海岸の警察庁に電話をして、もう大騒ぎでしたが、向こうからぴょんぴょんとジョンジェさんが辛うじてジェットスキーに乗って戻って来ました。笑っていました。そんなエピソードがありました。


「ビート」のキム・ソンス監督、チョン・ウソンを映画の海に陥れる

実は「ビート」以前にソンスさんが他のシナリオを提案しました。僕の判断では、その時まで監督が映画のキャリアがほとんどない方でしたが、シナリオが韓国映画らしくありませんでした。どうやって撮ろうとしているのかな?と怖くなりました。それで、ソウル劇場の隣のパブで会ってシナリオの感想を話しながら「僕にはできません」と監督に伝えました。すると、ソンスさんがクールに「分かった。今日ここではお酒だけ飲んで帰ることにしよう」ということで二人でたくさん飲んで帰りました。そして、「ビート」のシナリオを僕にくれました。

僕はあの時、漫画はあまり読まないほうだったので、シナリオを読んでから原作を探して読みました。主人公の役柄が僕にとってとても慣れ親しんだ感性だったので、映画を通じて表現したいものがありました。僕たちは夢を持たなければならない、そんなことを話したかったのです。

「ビート」が終わって、当時は僕の人気を実感できていませんでした。ただ、僕が頑張ったことが嬉しくて、好きな映画をしたのが嬉しくて、人々が好きになってくれたのが有難かったのです。映画雑誌に俳優の人気ランキングが紹介される時代でしたが、「僕が1位じゃないと」じゃなくて「うわ~、僕が1位だよ。嬉しい」でした。8ヶ月間僕の名前がずっとそこにいて嬉しかったのです。自惚れているのではなく、ただ本当に感謝していました。


「狼/男たちの挽歌・最終章」ジョン・ウー監督、演出の意味を気付かせてくれた師匠

「僕の頭の中の消しゴム」が日本で韓国映画の興行成績1位でした。僕はアジア、特に中華圏でも爆発的だったそうです。それで、ハリウッドにもアジア人がたくさんいるので噂されたりもしていたようです。ジョン・ウー監督とテレンス・チャンプロデューサーが僕という俳優に関心を持つきっかけとなりました。

実はジョン・ウー監督は、普段から恋愛映画を撮影したかった監督だと言います。ラブストーリーの男性主人公が一番格好良く見えると。そして「僕の頭の中の消しゴム」のチョン・ウソンが好きだったそうです。自身のペルソナであるチョウ・ユンファほど、もとい、もっと好きだともおっしゃってくれました。それで「キラー」というプロジェクトをジョン・ウー監督と一緒に準備しました。

「狼/男たちの挽歌・最終章」のリメーク版でしたが、当時早く撮影を始めれば良かったんですけど、色々な理由で遅れて、約束されていた日本からの投資も遅れてしまい、撮影がだんだん遅くなりました。「キラー」と関係なくテレンス・チャンが中華圏にマネジメント事務所を設立し、そこのマネージャーと契約して3年間「レイン・オブ・アサシン」も一緒にやりました。ジョン・ウー監督とテレンス・チャンはまた、「レッドクリフ」への出演も提案してくれました。しかし、その時「グッド・バッド・ウィアード」の撮影が被ってしまい出演できなくなりました。依然として僕と仕事をやり続けたいと思っています。僕に合う役があれば、いつでも一緒にやりたいと思っていますし。

現場でジョン・ウー監督が仕事をする姿を見て感動を受けました。中国の現場でコーヒーを飲むと、それを片付ける人が別にいます。しかし、ジョン・ウー監督はコーヒーを飲んだ後、空いたカップを必ず持っています。本人が動く時に自分で捨てます。非常に謙虚な方です。監督は現場を守るボス、精神的な支えになるべきで、人を使う人になってはいけないと思っていらっしゃるようです。

長々しい文になってしまいましたね。Vol.2では僕の新しい映画「監視者たち」について短く!!書いてみたいと思います(笑)
それではまた。

文:チョン・ウソン

「NAVER スターコラム」は、注目の俳優やアイドル、アーティストたち本人がコラムを執筆。話題のスターが直接書いたコラムをお届けしています。

記者 : チョン・ウソン、編集:ソン・ナムウォン(OSEN局長)、写真:チョン・ウソン、ZIPCINEMA