「私は王である!」お笑いで一致団結!

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写真=ロッテエンターテインメント

「私は王である!」ファクションで細かな笑いを提供

歴史的な事実に想像性が加えられたジャンルを“ファクション”という。「私は王である!」は、ファクション時代劇だ。口に入れた菜っ葉は吐き出し、肉ばかり食べようとする“肉愛好家”の皇太子忠寧(チュンニョン)は、臆病な王権継承候補者である。酒に溺れた兄がもともとの王位継承者だったので、忠寧自らが兄との摩擦を避けたかったためだ。

父親である太宗(テジョン)から皇太子に任命されたが、忠寧は兄との摩擦を恐れ、王位を継ぐことに対して激しいプレッシャーを受ける。兄との対立を避けたがるのは、もともと王位継承者だった兄である譲寧(ヤンニョン)と対立しなければならない“カインコンプレックス”(兄弟・姉妹間で抱く競争心や嫉妬心)という現実に対面することを恐れているのだ。

「私は王である!」は、忠寧が朝鮮王朝史上最も偉大な聖君として位置付けられる動機を提供している。つまり、忠寧が民から尊敬される聖君になるためには、苦労して日々を生き抜く人々の人生について知らなければならないのだ。

民の人生を直接見据えないことには、民のための政治ができない。忠寧が民の辛い人生を理解するためには、忠寧が直接民の立場に立ってみなければ分からない。「私は王である!」は、そのために童話を借りたのである。その童話は「王子と乞食」だ。

忠寧とそっくりの奴隷トクチル(チュ・ジフン)と忠寧の役割が入れ替わることで、忠寧が民の辛い人生を理解するというファクションによる想像性は「王子と乞食」の設定を借りている。トクチルは忠寧になりすまし、反対に忠寧は奴隷の生活をすることで奴隷の立場から見る朝鮮を、民の立場から見据え彼らの立場を汲み取ることのできる、相手の立場で考える視点を持つことになるのだ。

忠寧がトクチルと立場が代わり奴隷になるのは、“箱入り皇太子”だった彼が世の中の物事を悟っていく“忠寧大君の成長ストーリー”とも言える。例えば、宮で忠寧が用を足すときは、後片付けをしてくれる臣下がいた。忠寧は、一人では用も足せない皇太子だったのだ。

しかし、彼が奴隷になってからは違う。臣下の手を一つも借りずに後片付けをしなければならないのは、確かに忠寧の立場から見ると困惑することだが、奴隷の立場で忠寧の自我が鍛え込まれる過程は、成長ストーリーとも言える。

もう一つ、忠寧が民の立場になって考えることができる世宗(セジョン)大王になれたのは、彼自身が奴隷になったことだけでなく“ロールモデルとなる存在”つまり“指導者”に出会うことも重要だったからだ。忠寧の指導者となったのは、ほかでもないファン・ヒ(ぺク・ユンシク)だ。お金持ちの家から米を盗み出しおにぎりを奴隷に配り、怪我した奴隷に温かい仁術を施すファン・ヒの姿から、忠寧は一国の王としてやるべき徳目を間接的に習っている。ファン・ヒという指導者との出会いは忠寧にとって重要な出会いなのだ。

成長ストーリーが映画のメインテーマだからといって、ただ真剣さのみで終始一貫できる映画ではない。この映画は中盤まできめ細かな笑いを提供している。トクチルの垢が浮いているお風呂でトクチルを忠寧に勘違いして彼を誘惑するイ・ミドはもちろんのこと、イム・ウォニとキム・スロのコミカル演技は“お笑いで一致団結”することがどういうことかを余すことなく見せてくれる。

記者 : パク・ジョンファン